自責=自由からの逃走?(後)

 

 遺族には、自責の呪縛から解放されて、自由に余生を送ってほしい。

 後悔はもう十分したはずだから、後悔から反省へと切り替えてほしい。

 

 この世界の大多数を占める非遺族の人たちには想像してもらうことすら難しい「半身をもがれる」痛み。

 そこからの原状回復なんて、あり得ない。かなしみと共に生きるしかない。

 

 目に見える姿かたちは五体満足でも、わが子のいのちと共に、親としての生きる意欲を失ってしまった。

 じゃあ、自分にとって親の役目は終わったのか?

 

 確かに、形ある肉体とともに暮らしながら、喜怒哀楽を共にするという意味での子育ては、もうできない。

 でも、このかなしみ、この苦しみ、この痛みは「今でも親だから」こそ、味わっている。

 

 この思いがある限り、親子の絆は切れたりしない。見えなくても。

 

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 自分を責めることの「メリット」を考えた。

 半身をもがれ、それでも社会生活を続けなければいけない苦しさ。

 何かにすがりつかないと立つことすらできない。

 もしかしたら、かなしみは杖なのかもしれない。トゲだらけの杖である。

 

 自分は、子のいのちを奪った極悪大罪人だ。罰せられて当然、もう何も楽しいことなど起こりようがない。一生喪中、もう二度と笑えない・・・。わたしも、ずっとそんな思いに囚われてきた。(囚われる=自由を奪われる)

 

 自責は、思考が堂々巡りで進展しない。一方で、感情の爆発を固い殻で閉じ込めることで防ぐ。生活が固着してしまう。

 応急処置としてはやむを得ないと思う。

 

 数年たっても、子どもが帰ってくることを期待し、祈る。

 その姿を、否定する気はない。

 わが子がいなくなったことを受け入れられないのは、それだけ自責も強いということ。

 自責は、わが子への愛の証である。

 でも、その形でしか、愛を示せないのは不自由じゃないか?

 自責は手放せないけれど、ちょっと心の隅に片付けたい。

 

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 子が、今の親をどう思っているか。遺族なら、みな考えたことだろう。

 「一生苦しむがいい!」と罵っている子は、一人もいないと信じる。もしいたら、わたしの目の前に現れてほしい。いや、その前に、親御さんの目の前に現れてほしい。

 そうしたら、改めてわたしに苦情のメッセージをください。

 

 親は親で、自由に生きてほしい、自分のことを忘れずにいてくれさえいれば。どの子もそう思うのじゃないだろうか。

 だったら、わが子のことを一日も忘れず、なおかつ親として自由に生きる方法を探すべきではないだろうか。

 

 弔う、喪に服す、偲ぶ。

 気持ちが一番大事だが、ひとはとかく気持ちが揺れたり薄れたりする。

 自分を枠や型にはめて、それに従うことの方が気持ちを維持しやすい。

 イスラム教徒の、毎日数回の五体投地の礼など、そのひとつ。

 ただ、その枠や型は、自分が納得できること、できれば自分自身が決めたことがいい。

 

 枠やスタイル、方法、方向性などを考え、決めるのは、「親に残された自由」である。

 ひとつ基準があるとすれば、「それが子への供養になっているか?」という視点。

 

 わたしは子どものころから、いろんなこと、いろんな環境から、自由になりたくて、もがいてきた。

 マイナスの動機は、強い行動力を生むけれど、たとえば復讐は、遂げた瞬間に自由になるけれど、その後は、どうしたらよいか分からなくなる。

 

 かなしみから解放されたいという欲求はある。

 だが、かなしみが癒えることはない。かなしみと共に余生を過ごすしかない。

 だったら、それは過去の重荷として抱えるより、未来からの方向付けとして扱う方が、自分にとっても、なき子にとっても良いのではないか?

 

 親としての余生は、わが子の供養に捧げよう。

 供養の在り方は、それぞれが自由に決めていい。


 自由っていうのは、決してラクじゃない。外側から「はい、これがあなたの自由です。どうぞお受け取りください」なんて、与えられるものではない。


 自分で考え、自分で動かなくてはならないし、結果についての責任も負わねばならない。

 

 天使ママ、天使パパということばは、わたしは使わないけれど、天使なら、翼があるはず。わが子にはもちろん、ほら、半身もがれたこの身にも、翼は残っている。

 羽を休ませていては、自由はつかめない。

 自分の力ではばたかないとだめなんだ。

 それくらい、自由に生きることは、しんどいことなんだ。

 かなしみに囚われているだけでは、翼は朽ちていく。

 それでもいいと最初は思っていたけれど、それでは、子への供養は完遂できない。

 

 わたしは、自分の創造性について自ら確認したかった。

 まだ伸びしろがあると自分に証明したかった。

 だから、わが子への供養のために、自分にしか詠めない俳句を作り、書を書き、物語を書く。

 親として、子に捧げて恥ずかしくないものを。


「父ちゃんは、こんなふうに頑張ってる。だから、お前もしっかりやれよ。」と、叱咤激励してやれるのは、やはり親だからこそなんじゃないか。

 視点を変えれば、子に支えられてもいるわけだが、それはそれでいい。

 

 親にしかできない供養を、自分らしいスタイルで模索する。

 それが、遺族としての自由な余生の在り方だと思う。

 

 

 カバー写真は、一周忌までのブログをまとめた「想ひ出歳時記」と、三回忌までの記事をまとめた「想ひ出歳時記2」。いずれもわが子へのお供えである。