不眠がひどいので、ブログでも書くとしよう。豆腐屋かパン屋でバイトした方が良いかも(笑)。

 

 前回、「生きる力」について書いた。

 じつは、「欲」が「生きる力」(意欲のニュアンス)と非常に近いような気がする。

 意欲も欲の一種かもしれないし。

 

 昔、マズローの欲求階層論など勉強した。

 生理的欲求など低次欲求の上に、承認欲求などの社会的欲求、ピラミッドの頂上部分には真善美の高次な形而上的欲求が在る。

 

 生きる力は、かなり幅広い層にまたがっていると思う。

 たとえば安全の欲求は、食欲や性欲など下位欲求のまだ下にある。それがまず満たされないと、生理的欲求すら発現しない。

 

 登山家や冒険家たちは、なぜそんな危険なことに挑むのか、聞かれても、なかなかうまく答えられない。きっと、当たり前すぎて疑問にすら思わないのだろう。

 

 わたしが思うに、自分という存在の一番底にある、安全という保険や前提を、極限状態に身を置いて崩すことで、「生きようとする本来の力」を活性化させることに、言語を絶するほどの充実感を覚えるのではないか。

 

 わたしのロードバイクも、そこまで極端ではないが、一瞬の判断や操作を誤れば命の危険に直結するという意味で、同じ領域にある。

 生きる力、特に気力や意思が弱いと自覚しているわたしにとって、リスクと引き換えの疾走は、やはり必要な営みなのである。

 

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 欲と生きる力の話に戻る。

 

 政治家など、醜悪な権力欲(支配欲、名誉欲を含む)や金銭欲にまみれていれば、年をとっても、とっても元気である。だから人生百年とか、本気で思っているのかもしれない。

 一方で、食欲や性欲などを含め、欲はさまざまな犯罪の源泉となったりもする。

 

 だからか、多くの宗教では欲を諫める。

 欲と煩悩も、ほぼイコールである。

 欲をコントロールするのは、自分の外側では規律や罰則(慣習や忖度を含む)、内側では信仰や理性であろう。


 重い病気とか、極度の貧困などの厳しい環境においては、欲は行使を制限されるどころか収奪され、そのまま生きる力も萎えがちになる。

 

 たとえば、睡眠は、欲なのだろうか?

 遺族なら分かると思うが、おなかがすいても食欲は無かったりする。

 眠くはなるが、この現実から目をそらしたいから、早くあの子のところに行きたいから、二度と目覚めませんようにとも思うが、それは別に眠りたいという欲ではない気もする。

 

 いずれにせよ、遺族は、「もう自分なんてどうなってもいい」という自棄的気分がなかなか抜けず、もろもろの欲は少なくなっている気がする。

 これが、遺族の生きる力が低下している原因の一つなのだろうか?

 

 じゃあ、もろもろの欲望を喚起した方が、「生きよう」という意思につながるのか?

 意思と意欲はまた別物だ。

 意思より意志の方が、より理性やビジョンが感じられるが、強い意志なんて、そんなのある人は、ぐちぐちブログなんて書かないしな・・・💦

 

 生きる力をくださいなんて、横着なことを願ったところで、そのへんに落ちてたりはしないし、売ってるわけでもない。

 そこから先は、各自の問題であろう。(前回の記事に戻る。)


  ねむねむアニマルズは、ペンギン抱き枕2つと、エコバッグが口の中に入った鮫シリーズがわが家にある。ふわふわもふもふしたものは、息子も父ちゃんも大好き。