失われたものは、あまりに大きい。

 失われたら、埋めないと生き続けられない。それでもいいと二年くらいは思っていたが。

 

 埋めるのは、「外から持ってきたもの」ではダメだ。

 誰に聞いたでもなく、わたしの直観が、そう告げていた。

            

 遺族でも、生存本能とか、生存欲求は、かろうじて残っている。

 だから、「自分の中から」自分を支えるものを生み出したかった。

 

 自己顕示欲というのは否定しない。

 ただ、自分一人で完結する欲求では、努力や苦労を続ける自信がない。


 そんな情けない自分が嫌なので、後付けでもなんでもいいから、

 今日と明日を生きる理由を探した結果が、「誰かのために、自分で何かを生み出す」ことだった。

 

 誰かのために、期限を決めて、自分にしかできないクリエイティブな活動をすることで、

 失われた分を少しでも埋め、存在としての意味を保ちたい。

 

「こんな親が生きていてもいいのか?」という内なる声に抗うには、「だって、生きたい(まだ逝きたくない)から仕方ない」なんていう幼稚で単純な主張では、生き延びる意欲を保持できないのだ。

 

①     息子への供養のために、父ちゃんにしか作れない何かを残す。

②     息子に語る物語を書く。

③     友人たちのために、わたしの形見としての俳句を詠む。

④     風になってしまった息子に会いに、ロードバイクを駆る。

 

【息子がいなくなってからの年次行動】

2015年 想ひ出歳時記1を綴る(一周忌まで) 四国八十八か所巡礼

2016年 想ひ出歳時記2を綴る(三回忌まで) 西国三十三観音巡礼

2017年 想ひ出歳時記(完本)刊行

2018年 ロードバイク再開

2019年 早期退職、鎮魂慰霊の長編小説執筆、家庭料理上達

2020年 (半切条幅)の作品製作、句集作成に向けて作句再開

2021年 俳句に注力、短冊製作

2022年 水彩色鉛筆による俳画に着手?


 こう羅列すると一見順調に好きなことに打ち込んでいるように見えるが、いつでもずっと、無力感や希死念慮と抗っている。

 

 

 わたしの書を、僭越ながらご披露させていただきたい。(上手に書けたものは、既に友人たちの還暦祝いとか、退職祝いに謹呈したので、現物は残っていない。)


王羲之 蘭亭叙より

 欣(よろこ)ぶ俛仰(ふぎょう)の(すで)に陳迹(ちんせき)とるも、

 猶之(なほこれ)を(おもひ)をさざる(あた)はず

  (喜びは、みるみるうちに過去の跡となってしまうが、

   なおそれでさえも心を動かさずにはおれない)

 

 

論語 述而第七の十五より

 疏食(そし)を(くら)ひみ (ひじ)をげてとす。 

 しみ(また)(うち)にり。富貴浮雲し。

  (粗末な食事を食べ、腕を枕に眠る。そんな生活の中にも喜びはある。

  金銭や地位は、浮雲のように、はかないものである。)

 

 

 儲けようとか、名を売ろうとか、誰かに勝ちたいとか、すべて邪念である。


 これを見てくれて(お供えして)、喜んでほしい、あわよくば、ずっとそばに置いてもらって、わたしの分身として一緒に過ごしてもらえれば。それだけの思いで続けている。少しは埋まったかな?