涙が止まらないうちは、思考停止状態なので、内省洞察は深まらない。
これは嫌味や皮肉ではなく、仕事でクライエントとの面接中に、いつも実感していたことである。
涙は我慢すべきではない。涸れ果てて干からびてもいい。
単身赴任中に、干しネギというものが売られていて、知らなかったので驚いた。
カラカラに干した方が、時期が来て植えた時に、丈夫な根を張り大きく育つのである。
涙そうそうの時期を過ぎれば、自力で適切な行動を起こせる人もいるが、わたしはそうではない。
堂々巡りの後悔は、雑念と呼んで差支えない。何もプラスに働かないからだ。
意識して雑念を取り除くためには、集中を要する作業が良い。
普段はロードバイクに乗るが、落車後17日経過して、まだ負傷が癒えないので、筆を握る。
(実は明日から冒険に出るはずだったが、肝心の水曜日が雨予報なので、内心ホッとした。)
自作の俳句を、短冊に書く。三体字典は見るが、練習無しの一発勝負。
じつは若いころから小筆は苦手なのだが、文人を自称する以上、そうも言っていられない。
カバー写真は、短冊に書いたはいいが、その後に厳しく自己鑑賞すると、句集に入れるにはレベルが低かったり推敲不足であると判断して、ボツにした数々。
短冊がもったいなくて捨てられないが、このままでは浮かばれないので、カバー写真としてみた。
九月の句を若干。右から、
放つ手に紅は残さず赤とんぼ
渡蟹青さ儚き鍋の中
吊橋のワイヤー錆びて蔓手毬
舗装路の途切れし空に秋燕
なお、青山は、わたしの書の号。学生時代に、鯉水会の小幡青濤先生に頂いたもので、「人間(じんかん)到る処青山あり」から取った。
若い頃は、多分今よりかなり尖っていた。守るものなど何も無く、どこで野垂れ果てても本望と思っていた雰囲気を察して頂いたようだ。
書いているうちに、別の思考がわいてくるので、ついでにブログ記事にしてしまおう。
わたし自身は、若いころからずっと「生きる力」が乏しいと自覚してきた。
ただ、自分のことはよく見えないので、それが客観的事実かどうかはよくわからない。
そもそも「生きる力」とは何だろう?あまりに漠然としたイメージを細分化してみる。
カテゴリーA 目に見える領域
お金、環境=住む家・家族・友人、生きるすべ=生活上の智恵・経験・技術など
これはある程度はある、と思う。
カテゴリーB 目に見えない領域のうち、上記Aを活用できる個人的なエネルギー
体力(健康)、気力
体力面は普通だが、気力が乏しいな。
カテゴリーC 目に見えない領域のうち、上記B、特に気力部分を根本から支える力
意志、目標、意味、価値、希望など
このあたりが脆弱だ。
上記Cの「目標や意味、希望」を生むために、見えなくなった人との「約束」を使う手法については以前の記事に挙げた。
ほかに何かあるだろうか。
自分ひとりでは、いくら余生は自由だとか言ってみても、体系的かつ持続的で具体的なフォーマットは浮かばない。
共感による癒やしも大切だが、違った観点や経験からの気付き(可視化、言語化を含む)や刺激が、喪の作業プロセスには必要である。(たまに、刺激で傷つくことがあるかもしれないが。)
このあたりに、遺族同士が連携することのひとつの意味がある気がする。
生きる力(特に上記C)は、他の誰かや何か外側から、もらうものではない。
自身に沈潜内在しているエネルギーを解放し、賦活させるべきである。
おそらく、自らへのゆるしと共に。