【諦めと自暴自棄】
息子との再会は永遠に叶わないと諦めている。
なので、自分が生きているうちに魂のステージを少しでも上げて・・・というような発想にはならない。
だからといって、仮に自暴自棄になったところで、何かをやろうとする動機やエネルギーにはつながらない。
ということは、現実に対峙し、語源的に「明らかに観る」という、あきらめの先を探した方がよい。
【変化へのおそれ】
選択的夫婦別姓論議が進捗しない現状などを見れば明らかだが、《保守》の一定割合には、変化へのおそれ(既得権益への固執を含む)があり、男女で分ければ、男性の方が顕著である。
ロードバイク初心者の成長を見ていると、これも女子の方が圧倒的に変わる。別人のように。男子三日会はざれば刮目にして見よ、などというのは、ほとんど負け犬の捨て台詞に近い。
現状で満足できないと感じつつ、愚痴をこぼしながらも現状にしがみつきがちなのは、わたしも同様である。
変化の方向性や、コスト面も考慮する際、悪い方に悪い方に考えがちなので、エネルギーの少ない現状では、「まあ、別に今のままでいいや。」となりがち。
じっとしていれば、そのうちエネルギーが溜まるかと思いきや、むしろ徐々に衰えていくのが、われながら情けない。
【信じることは思考停止】
宗教の力は、いろんな意味で大きく人と世界を動かす。
わたしには、「なぜそこまで信じ切ることができるのか?」が理解できない。
信じることで思考停止し、信じたことに依存することで、心の平安を得ようとしているように見えてしまう。
自分に都合の良い言い方をすれば、わたしは科学者や哲学者向きである。
多くのひとがアプリオリに思い込んでいる前提についても、「本当にそうなのか?」とまず疑ってみる。
養老孟司氏は、地球温暖化賛成派だったが(作物収穫量が増える等の理由)、気象災害の大きな原因が温暖化に依拠する可能性が高いと知っても、主張を曲げないのか聞いてみたい。
話を戻すと、信じることは、具体的な目的に向かう行動エネルギーにつながりやすい。
信じられないたちの人は、自己肯定感も低くなりがちだし、あれこれ悩むばかりで、現状追認に妥協しがちになる。
信じられる人がうらやましいかといえば、正直そういう面もあるが、この気質傾向は変わらないと思う。
【生きる目的や意味】
昔、高齢者施設に入った祖母を見舞った際、「もう生きていても仕方ない。」と何度も言われ、まともに返事ができなかった。
「おばあちゃんが生きているだけで、わたしは嬉しい。」というメッセージを、心から表現できなかったのである。
そういう意味では、いくら正直でもTPOに応じて社交辞令が言えないと、世渡りは上手にできない。
わたしもブログ中、いろんな表現をしているが、実のところ
「人間は生きる目的とか意味とか価値とかを考えがちだけど、そんなものは最初から無いのではないか?」
という思いが支配的になってきている。
息子は大学を休学した際、自分の情けなさに打ちのめされ自死に至ったが、それはそもそも、親が言外に押し付けた、あまりに狭量な価値観ではなかったか?
山田風太郎の人間臨終図鑑を何度も読んでいると、「どんな生き方も、どんな終わり方もアリ」という気がしてくる。
だから、わたしも本当は自由なのかもしれないが、上記に吐露したように、現状から一歩踏み出す勇気もエネルギーもなく、ただうつうつと余生を浪費している。
【可能性へのチャレンジ】
たぶん、わたしがロードバイクに乗れる時間は、もうそれほど長くない。
なので、今までやったことのないことを、来月やってみる。
無事に完遂できるかどうかは、謙遜抜きで分からないし、健脚剛脚の方から見れば、「なんだ、その程度のこと」と笑われる程度のイベントである。
はっきり言って気が重い。それは、長旅に出る際の、期待を上回るブルーな気持ちと同じかもしれない。最近、まったく俳句を詠んでいないのは、この重圧のせいである。
ただ、やろうと具体的に行動に出ることだけでも、何かが変わるはず。
自分の全力を出した結果については、信じることや受け入れることができるはず。
また、それでも変わらない部分は、わたしの本質だと思って、受け入れることができよう。