わたしの学問的な専門分野は、教育心理学や臨床心理学であり、仕事上の専門は家族問題のカウンセリング領域であった。わたしが無資格の自称カウンセラーの方が大嫌いな理由は、そこにある。


(いまだにその手の方からフォロー申請などあるが、この記事本文を全く読んでいないはずである。ハッシュタグなどに反応して自動で何かする設定なのだろうか。興味はないが、そこにひとの心が介在していないことだけは明らかである。

当然即刻削除するが、呆れて不快な気持ちになる。自称ヒーラーとか、メンタルヘルス関連で金儲けを企む連中は許せない位大嫌いだと、ここに改めて明記しておく!)


 

 わたしは仕事には真摯に取り組んできたつもりではあったが、己の問題解決には何ら資するところがないばかりか、なまなかな知識や経験が、親としてのプライドやこだわりなどにつながり、ひいては息子の命を削ることになったと思えば、恥ずかしいでは済まず、この命程度で償いきれるものではない。


 

 夏ばてもあって、何にもする気にならず、いつもに増して無気力に過ごしていたが、ふと、父親の命日だったと思い出した。

 

 わたしは物心つくまでは、どこで誰に育てられたかはっきりせず、幼稚園に行く前ごろから、母と二人暮らしだった。父親と一緒に生活したことは、おそらく一日もない。だから、ずっと名前も顔も知らなかったし、最初から居ないひとだったので、淋しいと思ったこともなかった。

 

 ふとした気まぐれで、父を捜し出し、会いに行った時には、既に父は老いぼれた独居生活をしていた。

 

 老人施設3つ、病院4つを転々とするたび、呼び出されて手続きをしたが、単なる人道的な義務感からであり、親愛の情などはまったくなく、父のことを名前や続柄で呼んだことは、ついに一度もなかった。

 

 遺産相続の下心があったのは認めるが、車一台分程度だった。わたしが子ども時代に、養育費を送ってもらったことは皆無だったので、幾分か取り返したなという程度である。

 

 「普通の父と息子」という関係性があるのかは知らないし、仮にあったとしても、わたしには意味がない。

 

 父の葬儀はちゃんとやったし、遺骨は父が生前建てていた墓を探して埋めに行き、位牌は菩提寺に持参して永代供養してもらった。これですべて終わりである。

 

 わたしの父との思い出は、近くの飯屋に何度か一緒に行ったことと、囲碁を何局か打ったことと、あとは施設や病院の手続きくらいである。父のことで、面倒くさいと思うことは多かったが、心を動かされたことや、泣いたことは一度もない。そんな関係であった。


 以前に書いたが、父は職業軍人で、上からの命令を遂行しただけなのかもしれないが、東南アジアの島で、多くの人の命を奪ったのだと思う。

 理由はどうあれ、人をあやめてはならない。報いは当然受けるべき。

 

 わたしは父に対して恨みや怒りは一切ない。血のつながりがあるだけの他人だから。


 ただ、息子とは良い関係を築きたかった。わたしが死んでも、息子にだけはいつまでも覚えていてほしかった。

 

 逆さ別れになるなどとは、思ってもみなかったし、思いたくなかった。

 

 今鳴いている蝉たちは、親の存在すらも知らず、子が命をつなぐことも見届けないまま、たった数日間の命が尽きるまで、鳴いている。

 

 

※カバー写真は、神戸動物王国のヨダカ。とってもおとなしくて、かわいい。ヒナは画像でしか見たことがないが、真っ白でふわふわの毛玉みたいで、癒される。