ひとの幸せを願い、感謝できる人が一番幸せだと、以前に書いた。

けれども、実際は、なかなか素直にひとの幸せを願ったり、感謝することはできない。


親の愛だと思い込んでいたことが、子への支配欲や、子への依存だということはよくある。わたし自身のことでもある。

要するに、親が人として未熟だったということ。


仏教は、愛は執着であり、苦しみの元だと説く。

愛した(と思った)人が、無情にも離れて行った。たぶん、誰にもあることだろう。


憎しみや怒り、悲しみが渦巻くが、謙虚に反省して、支配欲や依存欲求があったと認めよう。


慈悲の概念。

「愛されるより、愛する方が、愛が深い。」

「必要とされるうちが花である。」

「花の時期は短い。」

「己が好きになった人から必要とされ、花の時期を得られた事自体が、人との相対的比較ではなく絶対的に、素晴らしい人生である。」


この教えから考えた。

与えられて、あるいは与えられたことすら気づかず、感謝の思いもなく、ただ喜んでいるだけの人間は、未熟なこどもである。


こどもだから、今はそれで仕方ない。見返りなど期待するだけ無駄である。

親の気も分からず、離れて行ったことを責めたところで、何も得られはしない。


喜捨は慈悲が根本にある。

「捨」とは、価値がないとして捨てることではなく、思いごと手放すこと。

たとえ短い関わりであったとしても、人に幸せや喜びを与え、成長に携わることができた。


その機会を得られたことは、人としての幸せであったと、ただ感謝したい。

それができるようになることが、親としての、遺族としての、余生における残された務めではないだろうか。