SNSの弊害については再三指摘してきたつもりである。
それに関連して、「前向きに生きる」ことが、あたかも人として望ましい姿のようにマインドコントロールされてはいないか?
と、敢えて反問したい。
分かりやすいように、Instagramに取り憑かれている人を例に取ろう。
彼(彼女)にとって、思い出はたくさんある方が良いし、より刺激的な思い出の方が、豊かなリア充なのである。
つまらない、あるいは辛い現実を隠し、スマホに映える小さな枠だけデコレーションして、それこそが自分の住んでいる世界だとうそぶいて見せる。
見ず知らずの他人のイイネが彼(彼女)の生きるチカラとなり、存在意義となる。
なんの責任も取ってはくれない他者評価にのみ自分を委ね、ネタ探しのために生活を振り回されて喜々としている。
それが馬鹿げたことだという真実にすら気付こうとしない。
まさに愚かであり、滑稽であり、本質的に不幸である。
過去のPost(投稿)は、キレイな言い方をすれば備忘録であり、今日は忘れて構わないし、いちいち覚えていられない。
2週間もすれば、キラキラ装飾された一時の思い出は、過去の遺物として、埃をかぶり、カビが生え、苔むし風化してゆく・・・。
それって、ストックしているように思い込んでいるだけで、実際は使い捨てであり、上書きしていないか?
それはすなわち、過去をどんどん軽く薄めていってるだけではないのか?
その時一緒に思い出を作ったヒトも、単に思い出作りの道具として利用され、用が済んだら使い捨てされるだけの消耗品に過ぎない。
・・・そんな生き方も、有ると認めよう。他人事として。
だが、自死遺族は決して、過去を上書きできないし、居なくなってしまった人との思い出を増やしていくことはできない。
だから、限りある思い出を、悲しく辛い思い出もまるごと、何度も何度も、毎日毎日、自分の命が尽きるまで、大切に思い出して、抱きしめてやることが、一番尊いことなんだと確信する。
だから、前向きになんて生きなくて良い。
過去ばかり大切に振り返るだけの生き方こそ、素晴らしい。
後ろ向きだからこそ、本当に豊かな人生と言えるのである。
逆説とか皮肉ではなく、本気でそう思っているし、伝わる方には伝えたい。
敢えて言う。前向きな生き方が良いと思っている人、そう思わされている人たちは、過去が今の自分を作り、支えている事実を直視する勇気がない人である。
自死遺族の多くは、あの日の事実の重さが耐え難くて、つい目をそらしたくなる。
それは本当に良く分かる。
けれども、それではダメだ。
良いとか悪いとか、そんな評価は誰にもできない。
けれど、あの子が最期まで懸命に生きようとしていた事実を、いつまでも覚えていて、毎日毎日思い出して、悲しみに暮れてやれるのは、親しか居ないではないか。
親子のきずなは、今はそうやって確かめるしかないじゃないか。
わたしは6年過ぎて、相変わらずである。一日でも早くこの世から消え去りたい。
ただ、その時が来るまでは、欠かすことなく、息子との思い出を反芻していたい。
カバー写真の背景は、蓮ではなくてダリアが、御仏の手に乗っている様子。