脳に機械を埋め込まれ、敵組織の手先となった兵士が言った。

「考えなくて済むからラクでいいぞ。お前も埋め込んでもらえ」

 

今から50年近く前の話である。永井豪のマジンガーZ。アニメ化前の週刊誌で読んだ。

単なる巨大ロボットの勧善懲悪ストーリーにとどまらない。

子ども心に、考えることを止めたら、人間終わりだなと、強く思った。

 

ほかにも、横山光輝の「マーズ」、ジョージ秋山の「ザ・ムーン」、いずれも子どもにはトラウマレベルの最終回であり、

やっぱり人類は滅ぶべき存在なんだな・・・という思いが刻み込まれた。

 

時事問題は消費される存在なので、あまり話題にしないのだが、

結局のところ、世の中の多くの人たち、幸せで退屈な人たちは、

不安や恐怖に怯えて右往左往したいだけなのではないか。

さらに、何かにすがって思考停止することで安寧を得たいだけなんじゃないか、と感じる。

 

自死遺族のツイッターなど、慰め合い、寄り添っているスタンスが目立つ。それはそれで、深く傷ついてSOSを発信する元気もない時には、傷つけ合わない安全な場が確保されていることが望ましい。ただ、今のわたしには物足りない。

 

わたしは別に、懐疑論者ではないが、宗教にしてもスピにしても、信じ切ることができない。

ならば、「かなしみ抜くために」、敢えて違う立場や主張の人たちの意見も参考にしよう。

 

東大院出の社会学者の肩書きで、芸能ネタなどにコメントする元AV女優のことば。

「不幸になる権利を選択し、不幸を謳歌するのもまた、人生の豊かさである。」

決して好きな人ではないが、そういう考えもあるのだな。

他にも、不幸や悲しみが、人生には必要だという意見(論文含む)が、ネットで散見される。

 

奥さんが病死し、現在まで10年間ずっと、毒を吐き続けながら嘆き悲しんでいる方のブログ(ほぼ毎日更新中)を見たりするが、彼など、別に誰かに救ってもらおうとか、既に思ってはいまい。ただ自分でかなしみ続けたいから、そうしているように見える。他者が批判したりするのは筋違いであり、善悪の問題でもない。

 

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最近面白いと思ったのは、自称カカオ教の教祖になった女子大生(当時は高校生)である。

「カカオが好きだ」の文字をプリントしたTシャツを着て、自作した大きな箱に自ら入り、道路脇で待機する。通行人が箱のボタンを興味本位で押すと、カカオ豆と彼女が飛び出し、やおらカカオの話を始めるという遊びをしていた。

 

ヒッチハイクで静岡から沖縄のカカオ農園に行き、3日間カカオの話をしたり、カンボジアで道行く人に片端から「チョコレートは好きか?どこで買うのか?どれくらい食べるのか?」などと聞きまくる。

「カカオは宇宙そのものである。」

「カカオには無限の可能性がある。」

「カカオは人類を救う。」・・・

 

「あいつ、頭おかしい」、「変態や」と言われることが嬉しいタイプだが、現在は国立大農学部で、カカオの研究をしている。

たまたまNHKの「沼にはまって聞いてみた」を見た時に、やたら上機嫌で前向きな姿が印象的だった。

カカオ豆を1時間かけて筋肉痛になりながらすり潰しているのは、「楽しい時間です」と笑う。

 

その彼女が、大学受験を前に自らに課したことのひとつ。

「苦しさを味わうこと。」

・・・かなり驚いた。

泣きながら勉強している自分をメタ認識して、「自分面白い」と感じたという。

 

上記から学ぶべきことは、(ウイルスと一緒で)苦しみやかなしみは、決して無くならない。

むしろ、ひとが豊かで成熟した人生を全うするために、無くすべきではない。

苦しみやかなしみと共存しなければならない。

 

かなしみは克服すべきものではない。

 

そして、できれば、苦しみや、かなしみを味わい続けている自分自身を、「まだ生きているのか?」と揶揄しつつも、満喫したいものである。