表題の句は、昨年初冬に、『自転車の教科書』の著者を訪ねて、安曇野のやまめ工房を訪れた際のものである。

それがなぜ今頃?

 

この句を見てしまったから。

 

ちっていくはっぱにいのちありますか 

 

https://www.amazon.co.jp/%E3%81%93%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%94%E3%81%A8-%E3%81%AF%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%81%AB%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A1%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%81%8B-%E6%BE%A4%E6%9D%91-%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%AA/dp/4884631242

 

通常、小学生の、つぶやきのような俳句もどきや、

おーいお茶(私の知人が選者をしていた)の川柳みたいな句などは、

視点の面白さはあっても、作品としての品や格調としては、まったく体を成さないものがほとんどである。テレビ芸人のショーと化している句の数々は、技術的に、こうすればもっと良くなりますよ・・・という「直し」を入れれば、それなりに形になる場合もある。

 

しかし、この小学生の句はどうだ。まったく直しようがない。

それどころか、心にこびりついて離れない。二度と忘れられない。

作者は、一見、はっぱの観察者であって、素朴な疑問を呈するだけで、はっぱに感情移入できていないように読める。

 

しかし、そうだろうか。

 

自らが、はっぱとして詠んだのだとしたら・・・私の駄句など、この小学生の足元にも及ばない。真似しようにも、できないレベルである。

 

ただ、この作者が、将来すぐれた俳人になるかといえば、その確率は極めて低い。一万分の一というところか。

でも、確率なんて、ひとが生きていく上で、左右されるだけつまらないものである。

私が、明日、この世界からいなくなる確率は数千分の一だろう。

だからといって、今日も元気だったから、明日も元気だろう、で過ごしていいのか?

 

この世界に生きている人たちは皆、誰一人死んでおらず、従って、現世のことしか知り得ないのだから、その先のことなと、語るべきではない。三人の兄たちを自死で失った天才哲学者ウィトゲンシュタインならば、そう叱ってくれるだろう。

 

既に親はなく、子もなく、師もなく、大好きだったあの人もいない。

 

今年になって、自転車に乗ったのは、ショップの新春ライドのみ。

心臓の調子が良くない(ような気がする)のを口実に、怠けている。もちろん医者など行かない。

ライド中に、この世界からお別れできれば、どんなに幸せだろう、とは思う。