お昼には風も止んでぽかぽか

事務所近くの遊歩道にもいろんな種類の桜が咲いています。

左が、”



”

ググってみたら、、
陽光桜は故高岡正明氏が開発した桜です。
高岡正明氏は、1940年(昭和15年)から青年学校で教鞭をとっていました。
戦争開戦で、村の若者は次々と戦場に駆り出された、
「日本は強い国だ、絶対に負けない国だ」と言い聞かせ、
数百名の教え子の出征を見送り「絶対に負けない」
高岡正明氏は心からそう信じていたそうです。
1945年(昭和20年)終戦。
戦争中もそして戦後も教え子たちの戦死の知らせが次々と届いた。
「私はなんということを生徒たちに話してきたのだろう!」
彼は落胆と自責の念で胸が張り裂けんばかりだった。
泣きながら毎日自分を責めて暮らす日々が続いた。
あのきれいに咲いたさくらの下で記念写真を撮った生徒の一人一人の面影を思い出して、
できるなら教え子一人一人の亡くなった地を訪ね、供養をして歩きたい、
そんな思いにかられたこともあったそうです。
終戦後、青年学校もなくなり高岡氏は、狭い畑を耕しながら細々と暮らしを続けていたそうです。
そんなある日、彼が青年学校の跡地を訪ねた折、ふと見上げると、思い出の校庭にさくらが満開に
咲いているのを見て、当時の教え子たちとの思い出が次から次へと脳裏をよぎったそうです。
彼はその時決心し、「二度と戦争のない平和な世界は自分たちの手でつくらなければならない。
そのためには生徒一人一人の命の証であり平和の象徴でもあるさくらをつくり、世界に広めてゆく
ことが自分の残された人生の最大の仕事だと考え、世界を視野に、どこにでも適応できる桜を開発
する必要がある。
その後の彼の執念には凄まじいものがあった。
私財を投げ出し、新しいさくらをつくるため日本中を尋ね歩く日々が始まった。
尋ねた土地から色々な品種のさくらが自宅に届けられた。
朝から晩まで毎日々文字通りのさくら、さくらの日々が続き、失敗を繰り返しながら、
品種改良に没頭し、20数年が経過、ようやく病気にも強く、厳しい気候にも耐えうることを発見、
この時にようやく今までにみたこともない大輪で紅色の強い丈夫な品種が誕生し、
新しいさくらとして注目されるようになりました。
故高岡正明氏が開発された「陽光桜」は世界中で平和のシンボルとして植樹が行われ
人々の心を照らし続けている。
『陽光桜-YOKO THE CHERRY BLOSSOM-』 映画化もされてました。
で、こちらが
”福島三春 滝さくら”
これも、、とっても有名でした。
エドヒガン系のベニシダレザクラで、大正11年に国の天然記念物の指定を受けた名木。日本三大桜のひとつ。四方に伸びた太い枝に、真紅の小さな花を無数に咲かせ、その様はまさに水が滝のように流れ落ちるように見えることから、「滝桜」と呼ばれるようになったと言われている。
これが、、本家「三春の滝桜」
見たことありますよね。。
と、、染井吉野以外の桜のお話でした~