日本人の完成された死生觀 | 解放

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日本的革新運動

 顯と幽とは相互に干渉し合ひ、吾人は顯界に在ると同時に幽界にも生きてゐる。靈的世界と物質世界といへば解かり易いが、以爲らく吾人の意識はその二面性を持つてゐる。現代では「多元宇宙論」が唱へられつゝあるが、眼前の宇宙は詰まるところ「意識が決定してゐる」のである。人は意識に因り靈的にもなれば唯物的にもなるものだ。顯と幽とは表裏一體なのである。從つて佛敎が說く(其の實はバラモン敎由來であり、釋迦は死後を說いてゐない)やうな「生と死の世界の斷絕」は閒違つてゐるのである。

 

 或は顯世で「正三角形」といふ單純なものが法則的に定まつてゐるのと同じやうに、一個の人閒も單純複雜の差があるだけで根本の世界(中今)で顯世の時空の制約を受けずに、法則として定まつてゐるのである。全ての事象も同じであり、定められてゐるものが反映されてゐるのが顯世(うつしよ)といふ譯である。而して、顯世に顯はれる過程を「産靈かため」と呼ぶ。吾人の遠津御祖は、釋迦も耶蘇も素通りした此れらの眞實を感得してゐたのである。

 

 「無」と呼ばれるものは「有」に相對するので「絶對の無」ではない。そのことは新宗敎なる「生長の家」の谷口雅春先生も唱へられてをられるが、その實は古神道の考へ方に他ならない。


「絶對の無」とは過去現在未來、全ての時空と事象が集約された無始無終の次元であり、此れを日本人は「中今」と呼ぶ。 その領域の神を、吾國にては 天之御中主太神とお呼び申し上げるのである。

 

 本來、日本人の信仰觀念は世界のあらゆる「宗敎」に優り、根本的に次元が違ふのだ。顯の對義語は幽である。顯界には相對する槪念が存在してゐる。而してそれは、そのまゝにして幽界の實在の證明なのである。相對する存在の無いもの、卽ち「絶對」は中心である。ゆゑに日本人は「中心」を崇めてゐるのである。

 

 佛敎や耶蘇敎等はグノーシス思想を論破出來ないと謂ふ。抑、耶蘇敎はグノーシスが「突つ込み」を入れる「矛盾」に囘答出來ないので、その言及を避け、一方的に理論を捨てて罵倒するのみなのだ。然るに惟神なる吾國は、之れを眞正面から受けても何らダメージを受けないのである。