「あきつしま」の原義 | 解放

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「秋」「飽きる」は本來同義語であつた。卽ち、秋には食物が豐富に實り「天の如き状況」が現出する。而して蜻蛉はその季節に飛來するゆゑに「あきつむし」とも稱し、時が下るにつれて「あきつ」と呼ばれるやうになつたのである。

 要するに「秋津洲あきつしま」とは「天の如きシマ (本來區域を意味する)」の由である。「しま(島)(嶋)(洲」」と「しめ(締)(占)」とは同根語であり、區分、區畫といふ意義だ。或は「飽きる」とは負の印象を持つ言葉に非ずして、その實は「滿ち足りた天の如き情況」を意味してゐるのである。
 

 言を俟たず「津」は上代日本語に於いて格助詞「の」の意である。(例 まつげ=目津毛=目の毛)

 

 ゆゑに「あきつみかみ 明神 現御神」の原義は「天の神」に他ならない。天津日嗣とは天の(ヒ 日=靈)をお繼ぎになられたお方の御ことなのである。

 

【あく、あき、あかり】
 「あ」は假に漢字で記すならば「天、陽」であり、對義語は「わ(地、陰)」である。他に感嘆を表す意味や、うつほ(空)といふ意味も含む。
 

 一說に依ると「あ-く(來) 開く、空く、明く」は「陰の狀態から轉じて正方向に離れ、過ぎる」といふが如き意味を持ち、「明かる」は「あく」+「かる(離る)」の合成語である、と謂はれる。亦た 「あかり」は、其れが名詞化されたものであるとされる。

 

 而して「あか赤」を分解すると「あ」は上述の意義を含み「か」を假に漢字にて示すならば「日カ」となる。「秋、飽き」の「き」を漢字で表せば「如 然」であつて、天の如し、といふ程の意義である。(例 土佐辧)


 附言すると、日本書紀 神武天皇條にある「蜻蛉之臀呫」は口傳の古言が漢字化された時に誤記されたものに相違ない。本來それは「尻を舐める(交尾)」などといふ意味ではないのである。「あきつとなめせる」は「天の和合」といふ意義なのである。


 「あき-つ」は言語學的に明らかに「天の」といふ意義であつて、そのことに疑義を挟む餘地は毫も無いのである。而して、無論「あきつ」は蜻蛉のことではない。現に蜻蛉の正式な和語は「秋津蟲 あきつむし(あきのむし)」だ。
 

「むし」は、明確に發音されぬゆゑ、次第に省略された筈であり、元來「あきつ(あきの)」といふ獨立した名詞は存在しないと斷言出來るのである。



 

「あきつ」が蜻蛉の意義として使用されるに至つたのは、恐らく奈良時代以降である。

 

 それが常態化された時に「あきつ」と讀み得るものを寫本した場合、蜻蛉のことと錯誤し、解り易くその文字を記した、といふことが容易に想像出來る。然して、大和言葉なる「となめ」は斷じて「尻をなめる」ではなく「とぬ (留ぬ 綴ぬ)」と「なむ (和む)」の合成語である。

 

 之れ乃ち「和合」を意味する。ゆゑに、吾國を「あき-つ-しま(天の區域)」と稱するのである。