「行動保守」のデモに參加してみた | 解放

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日本的革新運動

 

 筆者は、民族蔑視をせず、そのやうな發言もしないといふ信念を持つてゐる。
此の事は筆者が身分を明示して記したSNS、Web上の記録でも明らかであり、所謂「ヘイトスピーチ 」が問題視される以前から一貫してゐる。
 

 然しそれは、斷じて「韓國・朝鮮人が可哀想であるから」ではない。大御心に反するからに他ならないのである。では今回、川崎市中原區内で開催された「川崎淨化デモ」なる催しに參加した理由は何であるかといふと、第一に筆者の居住地と近いからなのであるが、最たる理由としては「カウンタア」と稱されるデモへの抗議をする者達と對話してみたいが爲めであり、それに關してはSNS「facebook」にて豫告した。


 草地貞吾 先生は次の如く仰られた。卽ち「意見の同じ者とばかり對話しても無意味である。意見の異なる者とこそ積極的に對話せよ。さうする事で相手に幾許かの影響を及ぼせ。」と。
 

 それゆゑ筆者は、實際に代々木公園にてアムネステイ の運動員と話をしたり、川崎市外國人市民代表者會議にて朝鮮人や廈門出身の支那人との議論を試みてゐる。それも何一つ聲を荒げる事もなく、まつたく落ち着いた態度で臨んだ。寧ろ和気藹々たるものであつたと言つても過言ではない。
 

 亦た虛僞と誇張が著しい「關東大震災時の朝鮮人虐殺を考へる集會 」に出席した際は、同行した髙橋氏と左翼側との紛擾をなだめ、筆者が試しに狗肉を食しに行つたこと等に就て和やかに話したものだ。而して資料に基づいた歷史的事實を提示しつゝ、靜穩に論を交はしたものである。

 

 反日的な韓國・朝鮮人に對して「死ね殺せ」等といふ單純な言葉を投げかけるのは簡單であるが、斯樣な言葉は損失しか生まないばかりか、人權問題に敏感な「國際權力」の的になること必至であらう。その事情を知つてゐるであらう筆者が關係する某團體はデモの際「民族差別的な標識の持參」を禁じてゐるし、櫻井誠氏との確執もある。さういふ事情があるので、筆者は「行動する保守」なる運動には參加した事が無かつたのである。


 但し、今囘行はれたデモの案内 には「韓國(人)朝鮮(人)」の文字は何處にも見當たらず、「反日勢力に對するデモ」であるといふ旨のみが記されてゐた。或は「ヘイトスピーチ」なるものが問題視されやうが何だらうが、それが規制されやうとされまいと、筆者は素より愚劣なる表現を嫌ふ。然るに此れの何處が「ヘイトデモ」なのであらうか。

 

 ともあれ、筆者は上記した豫告を實行する爲めの努力を行つたのであるが、參加してみた結果、間も無くとんだ見當違ひをしてゐた事に氣が付かされたのである。
 

 抑「カウンタア」と稱される勢力の大半が「四十面五十面を下げた餓鬼の集まり」であり、何事かを喚くだけの衆愚勢力であつたといふ事實がある。その後、警官隊に圍まれ乍ら集合場所に向かふ途中で、デモ行進が中止となつたことを告げられたのであるが、殆ど動く事が出來なくなつた。筆者は餘り氣が長くはないので、要領よく警察官の間を摺り拔けて、その足で停めてある單車の處まで向かつたのであつた。

 

 その後筆者は勞災病院橫でカウンタア參加者を待ち伏せし、「デモに參加した者であるが、何か言ふ事があるならば言つて呉れ」と訊ねてみた。果たして先程のやうな「破落戸の眞似事」みたいな言葉遣ひをするものとばかり考へてゐたのであるが、何とそのカウンタア參加者は「別に無い」等と述べたのである。
 

「無いといふことはないだらう。それならば何故參加したんだ」と、尤もなる疑問を投げ掛けると、筆者は微塵も襲撃することなど考へてゐない處か極めて穏便に話しかけてゐるにも關はらず、彼れらは驚いた事に警察官に助けを求めたのである。

 

 その爲め筆者は公園まで向かひ、屯してゐた一群に對して氣さくな感じで「デモ參加者だが、何か言ふ事があれば言つてみよ」と聲をかけたのである。

 

 

和田伸也



 勿論、落ち着いてれらの言ひ分を聽いて、それに就ての我が見解を披瀝する積もりであつた。若しも、彼れらがきちんとした「意見」なり「理想」を語るのであれば、本ブログ記事に其れを掲載することをも豫定してゐた。


 然し次の瞬閒、亦たもや彼奴等は警察官を呼び、揃ひも揃つて「言論から逃亡」したのである。要するに彼奴等は確固たる「意見」も持ち合はせてをらず、況や「思想」等といふ上等なもの等持つてゐない爲め、投げかけられた「質問」にすら答へることが出來なかつたのだ。

 

 此れが愚民の馬鹿騷ぎといはずして他に何と呼ぶ事が出來やうか。筆者は「斷じて斯樣な者達と同列であると思はれたくない」と心底感じた次第である。

 而して次の事にも言及せねばなるまい。卽ち、或は彼奴等に「活動するきつかけ」を與へてゐるのは、取りも直さず行動する保守と稱す勢力自身なのではないか、と。