もう年末ですからバタバタしないで、身近な写真など交えながら、想い出話をつらつらと書くことにしますね。
私は高校を卒業してから1年間バイトをしてお金を貯めて、当時横浜駅前のスカイビルの中に入っていた、「横浜放送映画専門学院」に入学しました。自分の考えや想いを伝える手段として、映画監督になりたかったんですね。
30数年前のことです。
しかし当時の映画界というのは、バブル経済で日本中が沸き立っている中にあって斜陽産業の代表格で、商業的にほとんど成り立っていない状況でした。専門学校を出たとしても、仕事なんてなかったのです。
その専門学校の講師は、映画界やテレビ界で食べていけない人が、固定給を得るために勤めていた、という感じで、まぁ事実そうだったと思います。
講師紹介の欄で代表作なんか見ましても、聞いたことのない作品に何本かかかわった、という人がほとんどでしたからね。
ところがそんなたいしてキャリアのない講師がですね、「今の映画界の隆盛は俺たちが作った」と、実際に公言するような人が多かったわけです。私たち生徒からしますと、「はぁ? 隆盛? いつの話? だれの話?」そんな感じでしたよ。
しかも映像の世界しか知らないからか、信じられないくらい世間知らずで、考え方も子どもっぽかったですね。
こんなことを書いても失礼だとは思いません。
傍若無人な人が多かったですからね。
私は映像学科の演出部に所属していまして、1学年の後期は、プロの監督に指導を受けながら、自分たちで短編映画を撮る、というカリキュラムでした。
幸い私のグループについてくださった監督は、当時、本編(劇場公開映画)を何本か監督して、わりと評価されていたそこそこ知られた方だったので、とても勉強になりましたね。
しかしその監督ですら収入が少なく、しかも不安定で、健康保険に加入していませんでした。監督自身が「健康保険に入ってないから、子どもが生まれた時とか、病気した時は大変だった」とおっしゃっていましたからね。
こうした状況の中に身を置いて、日々学校に通っているうちに、「このままここにいても先はないな」と思うようになりました。たいていならそう思うでしょ?
映画監督になるにせよ、シナリオを書くにせよ、社会で働いた経験がなければ、世の中を知らなければ、結局自分も世間知らずのままですから、どんなに取材をしたところで、それはうわべだけ、見せかけだけで中身のない薄っぺらなものにしかならない、生きたストーリーを描くためには、やはり実際に社会に出て働いてみなければだめだ、そう考えて、2学年の前期で退学しました。
2学年の後期はほとんど就職活動のみと言ってもいい感じでしたから、それ以上通う意味がなかったんです。
学校をやめて社会に出てから2年くらい経った頃、渋谷の街でなにかしらの撮影をしている人たちの中に専門学校の同級生がいましたが、その彼の姿を見て、学校をやめたことが正しかったと痛感しました。
あのまま映像の世界に入ったとしても、結局すり切れるまでこき使われて身体を壊すか、将来に不安を感じてやめていくか、そのどちらかだったと思います。
でも今でもいつかはシナリオを書きたいと思っています。
さて、学校をやめれば当然実家からの仕送りはなくなりますから、すぐに仕事を探さなければいけません。
高校卒業後の1年間のバイト生活で、自分が接客に向いていることに気がついていましたから、なにかのショップで働きたいと思い、アルバイト情報誌で探すのではなく、実際に自分の足で街を歩いてショップを見て回り、雰囲気のよさげなショップでアルバイト募集の張り紙がしてあるところを探しました。その方が確実ですからね。
その時に考えたのは、「どうせ働くなら女の子がたくさん来るショップの方が楽しくていい」ということ。だってその方が楽しいし、同じ働くなら楽しい方がいいじゃん。
そうして横浜でショップを探し歩いて、元町の雑貨屋さんで募集がかかっていたので、面接を受けて働くことになりました。
後日談になりますが、そのショップで知り合った女の子と数年後に結婚しましたし、そのショップで雑貨のおもしろさに目覚めて、以後、雑貨の世界に進んで行って今の私があるわけですから、あながち私の考え方も間違いではなかったわけですな。
以前にも書きましたが、今は「雑貨」という言葉も、カテゴリー・業種としても一般にすっかり浸透していますが、今から30年前の当時は、雑貨と言えばかわいいファンシー雑貨か、「王様のアイディア」(わかります?)のようなおもしろ雑貨、あるいは食器やカトラリーなどのキッチン雑貨くらいしかなく、今のようにおしゃれな小物、インテリア雑貨などはありませんでした。
雑貨の始まりはいろいろと言われていますが、70年代に、アメリカのガレージセールや蚤の市的なところで買ってきた、アメリカン雑貨などを日本で売る人が出てきたことが、雑貨につながっていった、と私はいろんな人の話から推察しています。
もちろん細かく見ていきますと、「日比谷の~」とか、「千駄ヶ谷の~」とかおっしゃる方もいらっしゃるでしょうけれど。
そして雑貨を語る上で外すことができないのが、当時、渋谷のファイヤー通りにあった「文化屋雑貨店」の存在でしょう。
「文化屋雑貨店が現在の雑貨の源流だ」と言っても異論を唱える方はいないと思います。
のちに原宿のはずれに移転して中国雑貨屋みたいになってしまい、先年閉店してしまいましたが、私が雑貨に興味を持ち始めた頃はまだファイヤー通りにあって、ショップの中を見ているだけで楽しくって楽しくってゾクゾクしたものです。
そのまわりにもいろんな雑貨屋ができ始めた頃で、あの当時の空気に、いろんな雑貨ショップの雰囲気に触れられたことは、今の私の原点であり、財産となっています。
しかし、元町の雑貨屋で働きはじめた頃の私は、まだそうしたすばらしい雑貨ショップの存在を知りませんでした。
私のみならず、「雑貨屋で働いている」と言いますと、「雑貨屋ってなに? 荒物(あらもの)屋?」と、冗談でなく言われた時代でしたからね。
その元町の雑貨屋で、今はなき「シン&カンパニー」と、古き良きアメリカのインテリア雑貨を復刻していた「ギャトラック」と出会ったことで、私の人生は映画から雑貨へぐるっと変わったのですよ。
ギャトラックの洗練されたデザインは、今もインテリア小物をデザインする上での核となっています。残念ながらギャトラックの当時の商品画像は検索しても出てこないですね。
シン&カンパニーは、文化屋雑貨店から出て独立したシンさんのメーカーで、ぶっ飛んだデザインは今でも多くのファンがいますね。
このシンさんには元町でバイトしている時から可愛がっていただきましたし、雑貨屋の雇われ店長をしていた頃も、メーカーとして独立する際にも、いろんなアドバイスをいただいて、私にとりましては本当に大恩人です。
次回は元町で雑貨のおもしろさに目覚めたあたりから書きたいと思います。あれからもう30年が経ったなんて信じられません。昨日のことのようによく覚えていますよ。
みなさんももう年末で忙しいでしょうから、気楽に読みに来てくださいねぇ。