「応生無所住心」(おうむしょじゅうしん) は、

住する所無き心。


住するとは、

「心が一ヵ所に留まること。執着すること。」


すべての迷いはそこから生ずるということです。

ですから、


『住する所無き心を起こさねばならぬ』

ということです。


出てくる観念や思いに執着しないことです。


心配だなぁ
不安だなぁ 
苦しいなぁ
めちゃくちゃだなぁ



あらゆる湧いて出た''思い''に執着せず
ただ湧いて出たままに放っておくと

その思いはただの''思い''として消えていきます。


耳の機能は、
音は、

ただそのまま消えてなくなり

次の音が重なることはないのです。


眼の機能は、
右を見たら右の様子
左を見たら左の様子
目は右の残影に左の様子を重ねることは

ないのです。

一年前に聞いたあの音がずっと聞こえ続けている。。。

なんてことはないのです。


目にした景色がこびりついて離れない。。。

なんてこともないのです。



思いも音や目にした景色と同じなのです。
思えた時にだけ思えただけなのです。


しかし、

その思いがずっと残っている様に感じるのは、


人間的な働き、人間的習慣により

無意識に雑念が雑念を重ねているからなのです。



六根の機能のままに投げ打って

雑念に雑念を重ねさえしなければ

どんな思いもその時限りで消えているのです。



もともとのこのものの

六根の機能としての出来栄えは、

住するところのない、
執着することなどできない
出来栄えなのです。


ですから、

六根の機能の事実のままに生活することが

救われているそのものなのです。




どんな苦しい経験をしていようと


その真っ只中にあるのは


六根の活動のみなのです。


それが、事実です。




雑念によるものは、


事実から遠く離れた妄念、妄想でしかないことに


気づくことです。





誰しもの自分自身の出来栄えですから


そうなっているのか


やってみる価値は大いにあります。