禅の悟りでは、

 



『ただひたすら坐禅し
修行することの他に

悟りや解脱を思い願ったり
外に求めてはならない』

(只管打坐)



と説かれます。





何故なら、

坐禅によって得るものとは、

既にもともと備わっている

このものの本性たる''普遍性''(仏性)
であるからです。



すなわち、

只管打坐とは、

 

『"坐禅''に坐禅をすることで

悟りを離れない修行そのもの』

となっているのです。



………



ここら辺は、
心底に
ただただ坐ってみることでしか
得られない理解かと思いますが。。。


……

 




そして、



ただひたすらに、ひたすらに坐り


自分自身の本性が何であるかが
ハッキリすることが''悟り''である



ならば、


自分自身そのもののことですから

自分自身の実践において

照らし出され明らかなるしかないわけです。





どんなに遠くに光を向けて
隅々まで探してみても


あるいは、


外から光を自分自身に当てて
サーチライトしてみても


''本性''は見つからないのです。






本性を照らす光とは、

自身の根源から

自分自身の深い底を破って

ただひたすらに、ひたすらに

照射してくるのです。








自分自身の本性とは、

妄想でも想像でも空想でもありません。




つまり、



まさか、お化けではあるまいし

他所に聞いて訊ねて
「あそこに出たらしいよ」

などと言って
現れ出るものでは無いということです。





真実たる事実に直に触れて

『既に在るものであったのだ』と

自覚することの自覚なのです。






さぁ、




脚のないお化けを相手に坐るのか?

自分自身の事実に直に坐るのか?




人生の大きな別れ道は、

先に行って一つになる
などということは、

はたとございません。





どなた様も
あしからず




ご注意くださいませ。(^^)