私ごとですが、

 

慢性疼痛のある生活を過ごす上で


この性質が、
非常に生かされる言葉があります。





道元禅師の『不染汚』

というものです。




少し説明しますと、、、


不染汚とは、

『なにものにも染まらず、汚されない
こと。』




では、その反対に''染汚''とは何か?
というと


『分別心で対象となる物事を判断することで、

無闇に対象を汚すこと。』





つまり、

分別心を起こさなければ

あるがままが既に''不染汚''なのです。





例えば、

赤は、赤であることで不染汚なのです。

犬は、犬であることで不染汚なのです。

痛いは、痛いであることで不染汚なのであり、

苦悩は、苦悩である事で不染汚なのです。





ところが、


どうしても人は、
痛みや苦悩などを毛嫌いしますので、


その様な時には、
どうにかしたいという分別心が
動きます。




この動きこそが、
''汚染''だというわけなのです。


ですから


私の場合は、日常的な
痛いは、痛いとしてある事においての
不染汚を守ることの修行をしています。



痛いは、痛いというだけであるなら
何ものにも染まらず汚されず、


つまりは、
その事がその事として


''救われている様子''であるのです。


痛いは、痛いで救われている。





この『不染汚』という言葉は、



道元禅師の


『正法眼蔵』の「坐禅儀」の巻にて
出てくるもので、

 



【坐禅は習禅にはあらず、


大安楽の法門なり、


不染汚の修証なり。】


とあります。




意訳すると、


『坐禅とは、
学習して段階的に禅定を深めていく
'習禅'ではありませんよ。


そこんとこ勘違いしないでくださいね。


坐ってそのものがズバリが、
大安楽の法門として開かれてある
のですよ。


そして、
このものの出来栄えとは、
初めから何ものにも染まることのない、
汚されることのない出来栄えである事が

 

坐禅の様子で過ごすことにおいて
証されるのですよ。』


といった風に理解しています。




そもそも、



私のこの痛みは、無くそうとしても
無くならないもので

痛みを相手に格闘したり
駆け引きをしてみても始まりません。




だから、
仕方なく諦めるしかない…

というのではないのです。





良くみてみると、

痛みで''汚染''されている私など
いないのです。



痛いは、ただ痛いだけであり


「私は何ものにも汚染されない存在」
として完全に''在る''

 

 

ということを



自覚することができるのです。




このように私にとっては、


痛みこそが、
良き修行の材料となっており


どんな痛みが起きたとしても


''風が流れる様にして''
坐禅の様子にて過ごすことで


不染汚の修証を日々精進できている事に
感謝しています。