CODA(コーダ)とは「ろう者の両親を持つ健聴者」という意味です。

 

 私の知り合いにも何人かのCODAはおられます。

 出会った頃はまだ小学生か幼稚園児だったのに、今では就職されたりご結婚されたりで成人になられた方が殆どです。

 手話通訳やろう運動に比重を置いている当方の聞こえる劇団員にとっては沢山のCODAとのお付き合いもありましょうが、私の場合はほぼ演劇に関してのろう者との出会いオンリーであり、従いましてそれほど多くの知人がいるわけではありません。ろう団員の方の聞こえる子どもさんに創作活動をお手伝いして頂いたことがあった程度で、幼少の頃から成人されるまでのCODAとしての暮らしぶりは実際あまり知らないことになります。

 それでも時にCODAとしての在り方に心が動かされたことはあります。

 例えば20年ほど前の劇団公演の打ち上げ宴会時、表方裏方全員に至るまでの一人一人のスピーチタイムがあって(これはおそらくどの劇団でも宴会場で必ずやってます)、ろう役者さんの手話での一言挨拶を、まだ小学校に上がったばかりの息子さんが日本語音声に通訳されたことがあります。普段は劇団員同士で音声通訳をするのですが、私としてはお酒も入っていた勢いもあって、まだ幼気なお子さんに「お父さんの通訳をしてよ」とお願いしたような経緯だったかと思います。するとその子はお父さんの流れるような手話を、まだ声変わりもしていない幼い声で見事に通訳をされたことに驚きました。 しかも、その子の表情は真剣そのもので、お父さんの一言一言を見逃さないような緊張感もあって。 

 〝一般的な家庭〟であれば、大人世界の対話など頭上を通り過ぎていって当然の年頃なのに、その子はお父さんの表情も含めた手話を一字一句見逃さないように見つめている。わからない単語が出てきた時は、手話で聞き返して確認している姿も覚えています。その手は本当に小さくモミジみたいな五指でしたが、しっかりと父親に確認している。この親子のつながりの深さに只々感動したのでした。

 

 しかし一方で別のことも考えてしまいました。

 この子にとってはこれが日常なんだと。

 それって相当に大変なことなんじゃないかと。

 手話通訳者を依頼するような機会ではなく、例えば日々の買い物やちょっとした町内会での集まりなど、この子はずっと立ち会っているのではないかと。ずっと親のために通訳をしているのではないかと。

 CODAって、もしかしたら可成りのストレスも溜まるんじゃないだろうかと想像したのでした。

 そして、何より救われないのは公演打ち上げという大人の酒席の場で息子さんに唐突に通訳をお願いをした私の行為であって、それこそまさにプレッシャーのかかるハラスメントではなかったのかと後日になって反省したわけです。

 

 さて今回観た映画『Coda あいのうた』はまさにそのことをリアルに伝えてくれるドラマでした。

 2015年に日本で公開されたフランス映画『エール!』のハリウッドリメイク版ですが、二つの作品の違い等はここでは述べませんが、今作『Coda』に限って評するならば、家族愛だけに留まらず青春映画の要素も強くて、多少なりともろう者と関わってきた私だからではなく、仮に自分にそうした接点が無かったとしても同じ深さで感動できたのではないかと思えるくらいに。

 「こういうお父ちゃんやお母ちゃんやお兄ちゃん、ええよなぁ」との憧れを持って。

 

 両親と兄がろう者のデフファミリーのロッシ一家に、唯一の聴者として生まれ育ったのが妹のルビー(エミリア・ジョーンズ)。彼女が主人公です。

 一家はアメリカの片田舎(マサチュ―セッツ洲)の漁港で漁師を生業としています。自分以外の家族がろう者であるために、ルビーは漁港で中間卸売り業者などへの手話通訳交渉役という立場もあって、ハイスクールに通いながら夏休みや早朝の漁には家族と共に船で沖に出る日々を送っています。通訳だけでなく実際に網を引き揚げたりして働き手として家計を支えている。「ヤングケアラー」としての負担は肉体的にも精神的にも大きい。漁をする姿から、親や兄への手伝いはきっと彼女が幼い時から続いてきたのだろうと想像できます。

 彼女には一つ天賦の才がありました。それは歌うこと。彼女は物凄く歌が上手かった。(演者のエミリア自身の歌声がこの映画の魅力の一つでもあります)

 ルビーは新学期になって合唱クラブに入部するや顧問のV(ヴィ)先生からコンサートでの歌唱役を抜擢され、それと同時に音楽大学への進学を目指すようにもなるのですが……。

 両親にすれば彼女の歌声が聞こえないので、その才能がわからない。しかも大学へ行くとなるとお金も必要だし、何より家族とは離れ離れになるわけで、そうなると今後は誰が仕事上の通訳をするのか。ルビーは家族にとっては必要な任務があって、親としても絶対に手放すわけにはいかない。

 しかしコンサートでの娘の歌声に聴き入る聴者の観客の表情を見て、涙を流して感動している観客の様子を見て、ルビーの父フランク(トロイ・コッツァー)は娘の歌唱を切に知りたくなるのです。実際の声を聞きたいのではなく娘の心を知りたいとでも言うか……そうして映画終景で娘の歌声を、歌に込めた想いを、ある方法で“聴き取ろう”とするのです。そうしてそれは父フランクの心に確実に伝わったのでした。

 翌朝、これがつまりは入学に大反対していた音楽大学の入試当日なんですが、その実技試験会場へと娘ルビーを家族全員で車で送り届けるや、審査員(試験官)以外立ち入り禁止の歌唱中の様子を家族だけが試験会場のホール二階客席に忍び込んで見守ることに。

 それに気づいたルビーは最愛の家族へ向けて、副題の通りの『あいのうた』を届けるのです。

 

 この映画の魅力は何と言っても、重く湿りがちな“障害者像”を明るく吹き飛ばしたことにあると思います。多様性という言葉が最近多く聞かれるようになりました。ひと昔前に比べて、ドラマの設定を現在に置いた場合であれば重くて暗い作品はかなり少なくなりました。しかし逆に実際の“障害者”の気持ちとはかけ離れた作品も散見されます。無理に明るくしてようとしている作品。役の設定を障がい者に置いているだけで実際の生活感からは程遠くて背景の薄い作品。そういう違和感は障がい者と接点の全く無い人であっても作品の中に感じてしまうんじゃないかと思うんです。

 今作は、「こういうろう者いるよなぁ」だとか「手話を話すことで、こういう行き違いやジョークはあるよなぁ」だとかの、(私にでもわかる範囲で)ろう者あるあるがきっちりと描かれていて、それがつまり広く一般に「こういう人いるよなぁ」だとか「こういう行き違いやジョークはあるよなぁ」とした普遍にまで高められている気がするのです。その上で日常生活に底抜けの明るさが確かにあって。

 暗くしないという安易な方向性ではなく、リアルに描けば描くほど暗くならないというドラマツルギーとでも言うか。

 個人的な世界をとことんリアルに追求すれば、それが普遍に通じる典型。家族愛も恋愛も。

 例えば父フランクはやたら開けっ広げでスケベで奔放な性格。演者の男優トロイさんがたまらなく魅力的で本年度のアカデミー賞助演男優賞にノミネートされたのも頷けます。更に母ジャッキー役を演じたマーリー・マトリンさんは86年の映画『愛は静けさの中に』で主演のサラ役で演技を絶賛された方で、今作でも娘への愛情を見事に表現。さらに兄レオ(ダニエル・デュラント)も、父親譲り?の女性への口説きと手の速さ、ここぞという時に人生の勝負に打って出る男気と妹への気遣いもひしひしと伝わってきて……時には喧嘩もするけれども、ルビーを取り巻くロッシ一家のつながりは強くて家族愛に満みちているのです。

 家族間の関係が希薄な昨今、こうしたファミリーがとても羨ましく思えるのは私だけではないでしょう。この“結束力の源”に障がいを置いているからこそ、重くもならないし湿りもしない。愛情が通底している。

 そうなんですよ。

 この映画は“障がい”を描いているのではなく“結束力の源としての障がい”を描いているんです。何事をも吹き飛ばすパワーの源泉が、聞こえない親と聞こえる娘の関係そのものにあるんです。

 実際のろう俳優で家族を配役したことで、画面にも家族間に音声言語ではない手話対話としての独特のロッシ家のテンポも生まれ、ろう者と聴者の文化の間を行き来するルビー役のエミリア・ジョーンズ嬢の逞しい姿が更に輝きを増したのだと思います。

 

 ろう者の登場する映画には結構ろう者コミュニティが描かれることが多いのですが、今回は家族以外のろう者は現れず、またルビー以外の手話通訳的な立場の人物もおらずで、現代のアメリカにあって、ちょっとそこは不自然な感じもしましたが、ルビーの孤軍奮闘ぶりを浮き上がらせるには必要な設定だったのでしょう。啓発物のような福祉制度上の課題を物語に大きく絡ませると、家族ドラマとしての焦点がぼやけたかもしれません。

 むしろ私はロッシ一家に関りをつないでいく何人かの聴者の存在、例えばルビーのボーイフレンドのマイルズ(フェルディア・ウォルシュ)、兄レオにナンパされた聴の女性、彼ら彼女らはそれまでろう者との直接的な接点がなく手話を知るよしもない。そんなこと全く関係なく、つながりを深めていくプロセスに惹かれたのです。とりわけ良い味を醸し出していたのがルビーの歌の才能を見出した合唱部顧問のV先生。風貌がどことなく宮本亜門氏に似ていると思ったのは私だけでしょうか。亜門先生(エウヘニオ・デルベス)がレッスン中に、歌わせながらルビー心の壁を取り払っていくシーンなどは泣けて仕方がありませんでした。言葉ではなく歌を通して心を解放させていく師弟の姿に。

 

 役者だけでなく、この映画の魅力の更なる一つは役者によって語られる“手話言語”そのものではないでしょうか。私は勉強不足でアメリカ手話(ASL)が全くわかりません。なのであくまで感覚としてですが、作中でのろう役者の使う手話は文法も含めてまさにろう者の日常の言語そのものであったと思えるのです。音声言語とは全く違う力を発揮していた気がします。思いますとか気がしますとか実に頼りないのですが、英語で書かれた口語セリフを単に手話に置き換えたのでないということは手話力に拙い私にでも経験上、肌感覚としてわかるのです。

 この映画の監督シアン・ヘダー氏自身が手話を習得してキャストに演出をつけたこともあるでしょうが、自ら聴覚に障がいがあり俳優でありダンサー、監督で教育者でもあるアレクサンドリア・ウェイルズをアメリカ手話の監督として迎えいれたことが大きな要因なのでしょう。アメリカ手話と英語とを直接翻訳するのは難しく、シナリオのセリフをどのように手話言語として表現するのかは大きな課題だったに違いありません。アレクサンドリアは演劇に精通し、またろう文化や歴史にも詳しく、作品の時代、地域、性別等などによって、どの手話が相応しいのかを決定していったそうです。父親の性格や生い立ちであれば、どのような手話が良いのか。母親の娘に対する想いであれば、どのような手話が良いのか。一つ一つを考えていったのでしょう。

 口語体のセリフを考える時、語順や語彙、句点にするか読点にするか等も執筆中に細かく悩んだりするのですが、それと似たような作業を手話でも緻密に行った結果が、今作手話セリフの魅力となったと思えるのです。

 

 こうした視点を書きますと、ああやっぱりろう者とつながりのある人の方がこの映画を強く感じ取れると思われるかもしれませんが、繰り返しになりますが、そんなことないのです。

 この映画は面白い。

 多くの人が面白いと思うはず。

 絶対。

 

 

 【追記:3月27日、第94回アカデミー賞で『Coda あいのうた』が作品賞を、トロイさんが助演男優賞を受賞しました。これを受けて日本でも各地の映画館で上映の機会が増えるはずです。是非ご覧頂ければと思います】