父が癌になった。

もともと前立腺癌を患ってはいたが、投薬治療を続けてきたおかげで殆ど完治していたのだが、先月になって度重なる血尿があり、病院でCTスキャンやMRIの検査を行った結果、膀胱癌と判明した。

88歳の米寿。昭和7年生まれ。

耳も相当遠くなり、体温の調節もスムーズにいかない。まだ真冬でもないのに暖房は相当に効かせないと寒いらしく、こたつと石油ファンヒーターとエアコンを総動員。私が家に帰るとテレビの音量はかなり大きくて部屋の温度も高温だ。そうしないと父は日常を過ごせない。

脊柱管狭窄症も悪化したから歩行が極めて頼りなく、シルバーカーを押すことでスーパーへやっと買い物ができる程度。なかなか危なっかしい感じだが、その店は幸い実家の近所なので散歩がてらに買い物に行くのを日課にしていた。

その父が癌になった。

まあ歳が歳だから仕方のないことなのだけれど。

このささやかな日常のルーティンを、術後も続けられればと思う。

 

実家ではもともと父は母と二人で暮らしていたのだが、母が10年前に突然心臓発作で他界したその日から、私は実家へ再び戻って父と同居するようになった。実家のそばに私の家があるので、毎日仕事から自分の家に一旦帰宅して用事を済ませてから、夜の8時くらいに実家に帰るようにしている。夕食を作り、父と食事をとりながらテレビを観ながら雑談をして……父は一階で、私は二階で眠る。

そういう暮らしを10年続けてきた。

 

その父が10日ほど前に膀胱癌を除去するための内視鏡手術を受けて数日間入院をした。病院はコロナ患者も受け入れているから面会もできない厳戒態勢で、まあその方がこちらも安心ではあるのだけれど、父の入院中、私は自分の家に寝泊まりをせず、無人となった実家に一人帰り、そこでご飯を食べ、テレビを見て眠る。そういう日を父の退院まで数日続けた。

家を家だけにしてはいけないと思ったから。

私の出勤中も、ずっと部屋の明かりはつけっ放しにしておいた。無人の家を真っ暗にはしたくなかった。

 

考えてみれば、私が実家でたった一人で過ごすのは、先述の脊柱管狭窄症で父が入院して以来のこと。この家で一人で眠ることは、58年生きてきてその時と今回と二回だけ。

床に就いて思うのだが、この状況は実に寂しいことだと改めて気づかされた。

私は、もともと沢山の親兄弟と共にここで暮らしてきたからだ。

 

私の実家は大正時代に建てられた長屋の一番奥の二階建ての小さな木造の借家。私が生まれたのが昭和37年だから、その時で既に築40年以上は経っていたわけで、今では築100年ということになる。

家賃は現在月3万円。

一階が京間の6畳と6畳。二階は6畳と3畳。家の裏には猫の額ほどの庭がある。

その間、家族は瓦を新調し、トイレを汲み取りから水洗に、和式から洋式に、木造だった玄関の扉や窓枠もサッシに替え、おくどさんから流し台に替え、間取りも若干の増築を行った。庭にたった一本生えていたイチジクの木は伐採され、そこに物置を据えたのは私が小学生低学年の頃だったか。

時代と共に、実家はグラデーションのように徐々に姿を変えた。

この家は我が家族の歴史をずっと見てきた証人とも言える。

 

私が生まれる前は祖父母、父、父の妹、父の弟の5人暮らしだった。

やがて父の妹(叔母)が嫁いでいき4人に。

そこへ母が嫁いできて5人に戻る。

で、昭和37年に私が生まれて6人家族に。

2年後に弟が生まれて7人家族に増えた。この辺りから私の記憶は始まる。

間もなくして叔父が結婚で家を出て再び6人に。

数年後に妹が生まれてまたまた7人に。

祖父母、父母、私、弟、妹。

よくもまあ、こんな狭い家に7人が暮らせたものだと思うのだが、昭和のあの頃はまだ大家族が残っていて、多くの家族が小さな家にひしめき合って暮らしていた。西陣界隈の友だちの家に遊びに行っても、みんな似たり寄ったりの環境だった。

 

しかしその後、祖父が他界し6人に。

弟が結婚し家を出たので5人に。

妹が結婚し家を出たので4人に。

祖母が他界したので3人に。

母が亡くなったので2人に。

そうして父の入院中は、とうとう私1人ということになった。

 

家の中には家族の生きてきた証があって、例えば祖父はまめな人であったからトイレの水道の蛇口あたりに「水は少しだけ流して、あとはキチっと閉める」と短冊のような紙に自筆で書かれた文字が壁に残っている。また退職後はレタリング教室へ通っていたから「愛鳥週間」をデザインした手製のポスターなどが未だに何枚か飾られている。

母が嫁いできた時に持参した婚礼家具の箪笥や鏡台は使い手もなく家に残されたままだし、妹が小学校の時から長年愛用していたスチール製の学習机もそのまま置いてある。

今では見掛けなくなってしまったユニットタイプの風呂もあり、いつだったか入浴中の老齢の祖母がどうした訳か中に閉じ込められて出られなくなったため、真っ赤な大型車で駆け付けたレスキュー隊員によってユニットバスの天井を外されて救助されたこともあった。その時の隊員が無線で誰かに知らせた言葉、「老婆確認!」が今も忘れられない。

大掃除の時は畳をあげてホコリを払うと共に下敷きになっていた古い新聞を読み漁って、随分と掃除の邪魔をしたものだ。台風の時は木製の雨戸をガタガタと閉めたし、停電となればそれこそ懐中電灯や蝋燭の灯りの中で雨風の過ぎるのをやり過ごした。

 

そんなこんなで築100年の家は今や傾いており、開いたままのふすまは閉じることができない。一昨年の積雪の後、二階のひさしが雪の重みに耐えられずへしゃげてしまった。

ネズミやゴキブリは出るわ出るわで、一度など父の就寝中の布団にイタチが入ってきたことがあった。すでに足腰の弱っていた父が夜中に気配で気付き、瞬時に父は飛び上がったという。まるでアルプスの少女ハイジで牛の接近に驚いて立ち上がったクララのように。

本当に思い出は尽きることがない。

私自身、父が歩行が容易でなくなってからは、ホームセンターで木材を購入してはインパクトドライバーを使って家中の至る所に手すりを取り付けてきた。今となっては私なりに結構家の歴史に痕跡を残していることになる。

 

そういう実家に私1人で寝ころびながらボンヤリと天井を見上げると、言葉にならない感慨が湧き上がってくる。

家が生きているというか。見ているというか。

命とは次元の異なる存在として。

宿っているのは、ここに暮らして逝った人の魂かもしれない。お墓とはまた別物の。

「家を家だけにしてはいけない」と思った感情は、おそらくそんなところから生まれてきているのだろう。

晩年の祖父や祖母は長く寝たきりとなって、この天井を見つめていた。母が急逝したのも、この天井の下だった。弟や妹が、父母に結婚の意志を伝えたのも、この天井の下だったはずだ。叔父や叔母が就職のこと、結婚の相手を告げたのもおそらく、ここだったのだろう。

この家は私の知らない一族の喜怒哀楽を全て見てきたに違いない。

 

もしかするとあと何年か先には、それこそ私1人だけの実家となるのかもしれない。その時、私はこの家をどうするのだろう。

この天井に見つめられてきた私は。

 

これは不謹慎な考えだとは思うのだけれど、いつか、でも近い将来、南海トラフ大地震が起これば、間違いなくこの家は倒壊する。

そうなれば私はこの家と共に消えてもいいかなと、少しだけ願っているふしがある。

今更に別のどこかに、私の新しいふるさとを求めることなど到底できそうもなく、そういう年齢でもなくなってきているので、ふと思ってしまうのだ。

そう思ってしまう自分を、愛おしく感じてしまうのだ。