第45回部落解放文学賞の戯曲部門で、応募した二作品が思いもよらず二作共に入選致しました。
この賞は、部落問題に限らず、例えば障がい者問題、国籍問題、性差による問題など様々な差別や人権を背景(テーマ)とした作品であれば応募することができます。
私が応募した「戯曲部門」以外にも「識字」、「記録・表現」、「詩」、「小説」、「児童文学」、「評論」と全部で七部門があり、今回は応募総数102編。うち入選7編。佳作7編が選ばれています。
昨日大阪のホテルで表彰式がありました。
到着早々、会場受け付けで「部落解放増刊号・第45回部落解放文学賞」を一冊頂きました。
ここに、今回の入選作全てと、それぞれの部門の選評も掲載されていて、その本の分厚さに受賞の喜びがなお一層高まりました。
式が始まるまで若干の時間、指定された場所に着席して早速に本を開きますと、応募された方の「受賞の言葉」のページがありました。
識字部門で佳作を受賞された部落出身の年輩の女性の方の言葉に圧倒されました。
以下はその途中からですが、原文ママを記します。
「……ひょうしょうしきがたのしみです。でん車にのれるからです。でん車にのるのは、今どで五回目です。きっぷのかいかたをおぼえたいです。けんこうで、いつまでもよみかききょうしつにいきたいです。」
受賞された方の人生が、苦しみと喜びが凝縮されていて、一気に胸が一杯になりました。
実行委員会の代表は(私が畏敬する)ルポライターの鎌田慧氏で、表彰式では表彰状を直接手渡してくださいました。
氏の目は厳しく、そして暖かく、壇上の私の脳裏に何故だか急に中島みゆき嬢の「鷹の歌」が流れ出したのでした。(♪『怖るなかれ 生きることを 鷹の目が 見つめてきた~』)
戯曲部門の二次選考選者は鵜山仁氏と芳地隆介氏で、表彰式から会場を移した懇親会では芳地さんにいろいろとお話しを伺うことができました。(残念ながら鵜山さんはご欠席でした)
元々芳地さんとは、私が二十歳過ぎの頃、今から30数年前にお会いしていまして、以前のブログに書き込んだ「演劇集団"瞬"」時代に遡りますが、芳地さんの『遊園地』という戯曲を上演した折り、激励のために会場まで来て頂いたことがあって、この時、私は音響のプランとオペを担当しており、当時はまだ珍しかったシンセサイザーで効果音を創っていたことを褒めてくださった記憶があります。
芳地さんにその時の出会いをお伝えすると、「随分と昔に君とは面識があったわけだ」と驚いておられました。
また、実は解放文学賞の受賞は今回が初めてではなく、10年くらい前にも受賞させて頂きました。その時の懇親会でも芳地さんとお話しをしていて、「君はブレヒトを読んだことがありますか」と問われ、著名な劇作家程度の認識の己の無知を恥じた経緯がありました。そこで今回は折角再びお話しができるのだからと、ブレヒトの戯曲「セチュアンの善人」だけは読みこんで、懇親会の席で短い時間でしたが、ブレヒトの『異化効果』などの技法を芳地さんから教わることができました。また「セチュアンの善人」が日本で初演された時、主役を若き日の市原悦子さんが演じられたと聞き、戯曲しか読んでいない私に突然舞台の空気が浮かんできました。
一時選考を担当してくださった方ともお話しができて、「ここ何年も戯曲部門から入選作が出ず、悔しい思いをしてきました」「でも今回の一次選考会はかなり盛り上がりました」「正月に、持ち帰ったあなたの作品を私の娘が読んでいて、かなり泣いていましたから」と、選考者の方もご自身の喜びとして語ってくださったことに感激しました。「そうか……この方の娘さんは泣いてくださったのか……」。
懇親会自体は12時に始まり15時に閉会するのですが、その殆どが壇上での選者の言葉と、受賞者の言葉に時間がさかれ、部門ごとに振り分けられた各テーブルでの会話のフリー時間は限られていました。しかし、それぞれの発表者の言葉には部門を超えた金言があって、とても有意義な時間だったと思います。
また頂いた本には一次選考者の方(司会者)と芳地さん鵜山さんの3名による東京での選評が結構なページをさいて載っていましたので、拙作に対してのアドバイスは、今後の指針にもなりました。
今回のブログ、
最後に、私が懇親会壇上で入選者の言葉として語ったことだけを、できるだけ思い出して書き残すことにします。
『戯曲部門で入選させて頂きました○○です。 今、壇上で沢山の方によるそれぞれご自身の作品についてのスピーチをお聞きしまして、懇親会からの帰りの電車の中で一刻も早く読んでみたいという衝動に駆られています……私はろう者、耳の聞こえない人と京都で劇団を結成して24年目となります……実は私はこの頃は戯曲の執筆に行き詰っており……それは台本と言うのは最初の一文字から最後の一文字、句読点まで作者が責任を持たなければならないということだと思っているのですが、実は手話というのは視覚的な言語であって、活字にすることができません。従って、私の書いたセリフも手話に翻訳をするという作業が劇団内で追加されていきます。私にもっと手話の力があれば、このセリフはこういう手話で表現するんだという信念の元で、活字として書けるのですが……今の自分には限界があって、なかなか難しいわけです。劇作家としてどうなのかと煩悶している状況です……しかしながら、今回、結果通知の封書を開きますと、なんと二作ともに入選と書いてあって……「ウソやん!」と声を出してしまいました……今後も戯曲を執筆しなさいと背中を押された気がしました……この時間を使って、何を話そうか、あまり考えずに壇上におります。二作ともの感慨を述べるのは大変なのですが、逆に二作に通じる共通点とはなんだろうかとさっきまで探っていまして、まあこれは結果的なことですが、実は二作ともに私が生まれ育った京都を背景とした作品であると……私が今住んでいる町内に、東映の斬られ役者さんが引っ越して来られて、五年ほど前からこの役者さんから劇団として殺陣を習っています。それでいつか殺陣を使った芝居を書いてみたいと思っていました。ところがいざプロットを考えてみても、例えば幕末に薩長同盟を成立させたのは、ろう者だけの藩があって仲介したからだ、だとかそんなことが浮かぶんですが、どうもそれは嘘すぎてありえない。私たちの劇団は上演の折、沢山のろう者が観劇に来られるのですが、こういう荒唐無稽な設定だと観客との心に距離が開いていまうのではないか……設定を一年くらい考えまして、そうだ、もしも大正時代、サイレントと呼ばれた無声映画、この映画の黎明期に耳の聞こえない役者さんが青春をおくっていたらどうだろうかと思いつきました。トーキー映画が誕生するまでの10年間くらい、トーキーの台頭で職を奪われた活動弁士同様に、ろう者の役者たちも姿を消す、その10年間の物語りを書いてみれば、それはもしかしたら有りうる設定として観客に受け入れられるのではないか、そう思ったのです。そうして書き上げた作品が今回入選させて頂きました「異聞『瞼の母』です。今から100年まえの太秦辺りをイメージして書きました……それからもう一作の「火群(ほむら)の時代」。これは今から57年前の京都西陣を舞台にした物語で、その頃はまだ日本にはたったの一つの手話サークルもなかった、そういう時代です。ある病院にろうの患者さんが入院され、担当となった看護学生さんが手話の必要性を感じて、手話サークルを立ち上げた、日本初の手話サークル誕生を追った群像劇です。今言いましたように手話サークルは西陣で生まれたわけです。私もちょうど今57歳です。西陣で生まれ育ちました……二作ともに資料を読み込み、多くの方にインタビューをして、私自身が、太秦では西陣では、ああこの建物の前には、こういう建物があったわけかだとか、かつての京都の地図を逆算していくかたちで描いていく。そうして60年前、100年前の京都の町で青春を送った人のあらがい、喜怒哀楽を想像する。そういう書き方をしていたように思います。これはもしかしたら、そういう書き方を私は今後もしていくのではないかという予感があります……最初に申しました通り、手話をセリフ化するという課題は消えませんが、今回の受賞で背中を押されたことに間違いはありません。今後とも戯曲を書き続けようと思います。本当にありがとうございました』