どちらも京都を舞台にした作品で、どちらも知人が役者として、しかも結構“おいしい役”として登場している映画です。
『父のこころ』 谷口正晃監督作品。
【京都を舞台に一度は崩れてしまった家族の再出発を、大阪を拠点に活動するフォークシンガー大塚まさじを主演に迎えて描く家族ドラマ。9年前、仕事に失敗して姿を消した奥村家の主、賢一(大塚まさじ)が京都に戻っていると聞き、息子の宏志はつてをたどって会いに行く。しかし父は家族との再会を果たすためではなく、世話になった女性のお骨をその人の家に届けるという目的で京都に帰ってきたのだった。それでも娘の恵美は父に結納に出席してほしいと告げ、母には何も知らせないまま、家族が9年ぶりに会することになり……】
この映画に登場する役者さんを私は殆ど知りませんでした。役者のうち、友人であるT君は元私たちの劇団員でもあり、今でもお互いの作品を鑑賞批評し合う仲でもあります。また、後に述べます福本清三さんは斬られ役としては時代劇ファンの枠を超えて超有名な方ですから、公私で知った方は出演されているのですが、どちらもこの映画では“主役”ではありません。フォーク界のレジェンド?大塚まさじさんに関しては名前は知っておりましたし楽曲も何度も聞いたことがありましたが、お顔はこの映画を見るまでは存じ上げませんでした。
つまり、既に色のついた名優さんの“主役ぶり”を観るのではなく、役者=役としてスクリーンに向き合うことになったのです。そして結果、私は見事にやられてしまいました。
みなさん、ナチュラル。つまり、上手い。
特に主役の大塚さん。演技力がある、技術があるという意味ではなく、むしろ「演技上手くないよなぁ」と第一印象では判定しておきながら、知らず知らず細かい心の動きがヒタヒタと伝わってくる。冒頓な喋り。無表情で乏しい表現力……最初は失礼ながら「これはヘタウマの域か」と距離を置いて観始めたのですが、いつのまにか、この“奥村賢一”という初老の男の想いが、映画のぶれない中心軸となって居座っている。私の何かを鷲掴みにしてくる。琴線に触れてくる。声高に何も主張しないからこそ、こちらがその気持ちに歩み寄ってしまうのか。それが大塚さんのテクニックであるのか、キャスティングの妙であるのか、監督の指示の賜物なのか……とにかく映画が紡ぐ世界観にグイグイと引っ張られてしまうのです。
人が人を許す・受け入れる・理解する、がおそらくテーマとなるのでしょう。
家族の再生などというと、一つ屋根に暮らすファミリーが精神的にはバラバラで、何かのキッカケで信頼関係が復活する物語りが殆どです。
しかし、この映画では最終的に家族が家族として再生することはありません。家族という戸籍上の絆が解体してなお、お互いの中に生まれる信頼感。
家族を捨てた父親が、こんなにもすんなりと捨てられた側の心に受け入れられるはずがないと反発する観客もいるでしょう。しかし不思議と“人間って、こうやって人を許すものなのかもしれない”“こうやって人を理解するのなのかもしれない”と私的には納得してしまうのです。
T君の演技は、いつになく“シンプル”で、そこが新鮮でした。見せる演技をせず、ただそこに居るみたいな……「いい仕事をしているなぁ」と、本音を言えば、若干うらやましかったわけです。
この映画、もしかしたらキネマ旬報のランキングで、かなり上にいくかもしれません。そんな予感がします。
『太秦ライムライト』 落合賢監督作品 脚本/大野裕之
【かつて日本のハリウッドと呼ばれた京都・太秦。
加美山(福本清三)は、太秦の日映撮影所に所属する斬られ役一筋の大部屋俳優。大御所でスター役者の尾上(松方弘樹)の連続時代劇も打ち切られ、出番がない日が続く中、加美山は駆け出しの女優さつき(山本千尋)と出会う。さつきは加美山に殺陣の指導を請うが「女優さんに立ち回りの役はありまへんで」と断る加美山だった。しかし、さつきの熱意に負け、やがて二人はともに殺陣の稽古をする師弟関係となる。
加美山との稽古の甲斐もあり、時代劇でさつきはチャンスをつかみ、スター女優の階段を昇るべく、東京に旅立っていった。
……時がたち、さつきが主演を演じる大作時代劇の撮影が撮影所で行われることになるが、加美山の姿はなく、お世話になった人がみな引退してしまったことを知り、さつきはいつしか大切なものを見失っていたことに気付く。
彼女は、体調を崩して引退して故郷で余生を送っていた加美山の元を訪れ復帰を懇願する。かたくなに復帰を拒否する加美山にさつきは稽古を申し込む。
一か月後、加美山は撮影所にいた。最後に尾上と刀を交すために。
そして最愛の弟子、さつきに斬られるために……】
と、あらすじだけを見ると、なんだかよくある“老兵は死なず。ただ去りゆくのみ”っぽい映画を想像されるかもしれません。実際のストーリーも、タイトルにライムライトとあるように、脚本を書かれた大野裕之氏がチャップリンの名作『ライムライト』にオマージュを捧げた作品創りになっていて、それ故プロットもオーソドックスなパターンとなっています。
しかし、これが時代劇の斬られ役に設定を置いたことで、私にはドカンドカンと響いてくるのです。福本清三さんの演技も(先の大塚さんと同様に)主役であるにもかかわらず決して前に出ず、いやむしろそれは天性のものか、人を引き立たせるために絶えず一歩後ろに下がっておられるような印象を受けました。だからこそ、斬られ役一筋の人生観が演技から滲みでている。斬られ役者が映画の中で追求するのはただ一点、主役(斬る側)がより美しく、あるいはより凄惨に映るようにすること。自分ではなく相手を目立つようにすること。ちょっと違うけれど言ってみれば『蒲田行進曲』のヤスの世界。銀ちゃん(風間杜夫氏)やヤス(平田満氏)はまだ若かったけれど、この映画に出てくる加美山(福本さん)は70歳までその生き方に徹している。”引き立て役”を淡々とこなすプロフェッショナルの矜持。それを福本さんの実人生が裏付けている。
たまに加美山が感情を露わにしているようなセリフが出てきます。でも、それも相手を輝かせるために飛ばしたゲキで、自分の感情を爆発させたわけではありません。例えば、
劇中で、駆け出しのさつきが、斬り合いができる新人女優ということでチャンスをつかんで大抜擢された最初の殺陣の撮影。しかし、あまりのプレッシャーに体がすくんで動けない。するとその愛弟子に対し、見守っていた加美山がさつきに一喝する。「太秦城の姫様になるんじゃなかったのか!」
或は、加美山の体調の悪さを心配した御大スター(松方弘樹)が撮影の合間に「大丈夫かい?」と優しく声を掛けたのに対し、斬り合いに手加減を加えられてはたまらない、それでは御大が輝けないと、逆に御大を挑発する言葉をぶつける加美山。「怖じ気づいたんですか!」。すると御大は鬼の形相となり役にのめり込む。斬られ役者の身からわざと暴言を吐いてしまう痛み。
さつきに対しても御大に対しても、その人を輝かせるためにあり続けようとする生き様。自らが主役として踊り出ない信念。
京都に暮らし、殺陣を習う身でもある私にとって、福本さんの殺陣の時にだけ見せる圧倒的な迫力に見入りながら、役と役者の実人生が重なり、それは私の演劇人生感にも揺さぶりをかけてきて、どうにも複雑な感情が湧き上がってきたのです。
人に感動してもらうために、己が何をなすべきか客観的な覚悟をする。なかなか到達できない境地です。
シナリオを書かれた大野さん、実はミュージカル劇団の座長でもあります。私は過去に何度か観劇したことがありますが、申し訳ありませんが余り心に迫ってはきませんでした。が、『太秦ライムライト』の脚本は実に見事で、もしかしたら観劇したミュージカル作品の良さを私のほうで見落としていたのかもしれません。
また、映画のラストあたり。私たちに殺陣を教えてくださっている剣会所属の我らがМ師匠が、殺陣をしない逃げ惑う殿様役として登場されています。ご本人は、先日もテレビ時代劇の『宮本武蔵』で武蔵(キムタク)と小次郎(沢村一樹)に同時に斬られるという、ドラマ史上初の設定で見事に嬲り殺される山賊の役を演じておられましたが、さぞかし本映画でも斬られる側を演じたかったのではないかと思われます。しかし、これがつまり斬られ役者の生き様なのかもしれません。映画を輝かるため、主役を光らせるため、己の我を持たない生き方。その辺り、師匠に酒の席にでも、尋ねてみようと思っています。