三年前の秋、母が突然亡くなった。
つつましい生き方そのままに親族のみで野辺の送りをした。母も本望だったと思う。
けれども私の中の喪失感は大きく、母が死んだ事実をどうにもこうにも『世間』の多くの人に知って欲しくて、衝動的に地元新聞の読書欄に投稿していた。誰かが記事を読んでくれることで、少しでも心の空洞を埋めたかったのかもしれないし、或いは現実とのバランスをとろうとしたのかもしれない。つつまし過ぎることは悲しい。ひっそりは悲しい。誰彼構わず、打ち上げ花火のようにドカンドカンと『母が死んだ!』と叫びたかったのだと思う。
原稿がボツとなれば更なる不安定に陥ることも考えられたが、幸いにも投函から若干の日をおいて、年の瀬も迫った最後の祝日に掲載された。
以下はその原稿。
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この十月に母が他界した。心臓疾患による突然の旅立ちだった。
生前、私は母に、余暇の張り合いにでもなればと自分史を書く事を勧めていた。けれども答えはいつも同じだった。
「敗戦直後の小学校しか出てへん。文章なんか書くんは苦手や」。
そしてとうとう遂に、たったの一言も遺さずに逝ってしまった。
ところが、母の遺品を整理し始めると、出てきたのだ。西暦2000年の元旦から毎日欠かさずつけていた日記帳が。
食器棚の奥から、タンスの引き出しから、何冊ものB5ノートが出てくる出てくる。そのどれにも、母の手書きの文字が小さく細かくびっしりと書き込まれている。発熱した孫を気遣う言葉、夫婦で出かけた初の海外旅行での驚きの様子、近所の人と市場で交わしたやりとり……毎日の献立……数千日の日常。
そう言えば母の近くには何故かいつも小さな国語辞典があった。これで分からぬ漢字を調べていたのだろうか。就学の機会が少なかった母には学ぶことへの憧憬と渇望があって、人知れず日々の営みを文字に刻んでいたのか、それとも本当に純粋に、生きている証を綴りたかったのか。
母の遺した圧倒的な数の言葉を前に、私は万感の想いでいる。
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以上の拙文を、ほぼそのままの形で朝刊に掲載してもらった。
文面とは別に新聞に投稿するにあたって、一点だけ猛スピードで熟慮したことがあった。それは、私の肩書きを何と表現するか……読者欄には、肩書きの添付を求められていたから。
普段は自身を鼓舞する意味も含めて職業欄に『劇作家』と書く事が多い。十年以上前に、某演劇祭の担当者が私をスタッフの面々に紹介して下さったときに「劇作家の○○さんです」と肩書きをつけてくれた。折角、ひとが言ってくれているものを「いやいや違います」と恥ずかしげに否定する理由があるかを、瞬間考えた。ないように思えた。肩書きなどと形式ばらずとも、人から「あなたは何をする人ですか?」と問われて、何と答えるかをそのあと真剣に考えてみた……哲学的な思考の結果「何をする者でもありません」や「人間です」という答えもあるかもしれない。けれど、事実私は一年365日、ずっとセリフを考えているわけで、結局は『劇作家』が妥当だと判断し、以後問われれば「劇作家です」と答えることにしている。
が、この新聞投稿欄に関しては、私が死んだ母に対して自分を何と表明すべきかを問われているような気がした。母はずっと、私が演劇を続けていることに反対で、「いつになったら止めるんや?」が口癖だった。「全うな生き方」から外れた息子。日記には、私の将来を心配する言葉が山のように出てくる。読むのが辛くて、参った。心臓病で亡くなったことを考えると、その死因の一つには不肖の息子の『所業』があったに相違ない。
母に心痛をかけたのは、何も戯曲を書き始めてからのことではなく、もっと以前の20代の頃から舞台に立ち続けた昔に遡ることができる。
舞台から遥かに遠いイメージの肩書きをボカシて添えることが、母の供養になるかもしれない……。
けれど私は肩書きを
『舞台人』とした。
書いたことで、また一つ腹をくくることができた。母が許そうとしなかった不肖な生き方を続ける覚悟ができた。何と親不孝な。
しかし母には申し訳ないが、何故だろう、そう書くことで心のバランスが少しだけとれた気がした。
この期に及んでなお、
母に対して正直になれたからかもしれない。