2月3日。節分。
「鬼はーそと、ふくはーうちっ」
幼い頃、よく意味もわからずに豆を撒いていた記憶がある。





ウチはどっちかといえばそういう、日本文化みたいなものに関心のない家庭だった。
正月、別に御節は取り寄せないし母親はじゃぶじゃぶ洗濯をしていた。
お盆休みは毎年行きつけの健康センターで遊んで過ごし、墓参りには気が向いたときに行った。
でもなぜか節分は、親父がバカみたいな鬼の面を被り、めずらしく家族総出ではしゃいでいた。





いつまでそうやってたろう?小学3年生くらいのときにはもう、恵方巻きを恵方も向かずに黙って食うだけの日になっていたと思う。






幼心に感じていたのは「鬼の想定外の弱さ」と「翌日の"そと"の異常な恐ろしさ」。






先日、大好きな作家さんがこんなのを投稿していた。








『サラリーマン山崎シゲル』で知られる田中光(たなか・ひかる)さんの連載、『この夫婦は、止まらない‼︎』という漫画の節分に関する回。





『節分Ⅲ』という章で夫婦は、子供相手に真面目に鬼の弱点について考察を述べ始める。
強い鬼が豆をなぜ怖がるか。痛いからだとしたら、あんな小さな豆ではなく石を投げた方が「効果的」。なら成分になにか毒となるものが含まれているに違いない。なので液体にした方が「効率的」だ!
そんなこんなで夫婦は子供たちに豆乳を持たせる、という内容(笑)





僕も幼少期、そんなことをしょっちゅう考え、訴え、友達に引かれていた。
※この下はイライラしたくない人は読まないでください(笑)






桃太郎でも割と安易に征伐されたし、鬼は実は弱いのだろうか。でもそれなら、節分に家から追い払う必要がなさそうだ。





というかその前に、鬼を本当に強大で畏れ多いものだと思うのなら、豆撒きなどという発想になるだろうか。何か神仏的なものに頼んだり、それこそ鬼様になにかをお供えして祈ったり、するのではないだろうか。豆を撒けばとりあえずの害役は取り除ける、なーんて横着じゃなかろうか。







とにかく腑に落ちなかった。
節分に限らず、物事のほとんどはとにかく腑に落ちなかった。





いや、腑に落とさなかったのだ。






僕はほっとけば、無理にはしゃぐ家族に乗っかって、意気揚々と豆を撒き、なんの違和感も抱かず玄関先に散らかした豆を嫌々掃き集めるだろう。
それではまったくもって、注目してもらえなかった。
僕はいつも寂しかった。
こいつ頭が良い、でも悪い、でもいい。屁理屈野郎でも、傍若無人でも、なんでもいい。
誰とも替えの効かない、明確なキャラクターでポジションに立たないと、不安だった。






今となっては「誰にも必要とされていない」みたいな類のことを本気で思っていたわけじゃないと思う。
ただ、「僕だけを必要としてくれる人がいない」ことをとてもシビアに考えてしまうのだ。






こういう人は多くって、その時点で僕は唯一無二からは果てしなく遠かったのだろうけど、幼い頃から僕は自分でそうしようとしていたわけではなく、自然にそういう「キャラ付け」を止められなくなり、ここまで来た。
僕は飲み込んでおけばオトナでカッコいいと言ってもらえるような事柄まで、わざわざ吐き出してきたのだ。






しんどかったなあ。
みんな、こちらからは笑ってくれてるように見えたけど、やっぱり何の解決にもならなかった。






吐き出したくないものをせっかく吐き出すわけだから、頭が悪いとは思われたくない。慎重に自分の感じた矛盾がはたして本物かどうか吟味し、吐き出したその吐瀉物もちゃんと持ち帰って検証し、話し方はあれで良かったのか、オチが弱いんじゃないか?とか…
少し経ったら平気になった、みたいな無様なことにならないように、しっかり保存してから眠る。






やらなくていいことでずいぶん精神を喰った。思い返すと、情けなくて仕方ない。しっかり病んでしまった。






それもある種、鬼の仕業なのかもしれない。豆撒きを疑い、手抜きなんてしなければよかったのかも。







僕と節分の、苦い思い出。
要するに、信ずる者は救われるって話。






ただ明日、玄関のドアを開けるときは気をつけるべきだ。
渡る世間はやっぱり、鬼ばかり。

via HA-WRENCH
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