不妊治療を始めるのにはとても勇気が必要だったと思いますが、治療にはいつか終わりが来ます。

 

それが、妊娠出産という形でハッピーエンドを迎えられれば素敵なことです。できることなら、お子様を望まれる皆様がそうなるとよいなと常日ごろから思ってはいますが、残念ながら、最終的にハッピーエンドとなることなく治療を終えられる方もおられます。

 

採卵、受精、胚発生、着床、流産、どこでつまずくかは人それぞれですが、不成功体験が積み重なってくると、「治療を続けてもうまくいく気がしない、いつまで治療を続けるのがよいのか」ということを考え始めます。そうした時によくある質問が、「少しでも可能性があるのなら続けるのですが、私たちの場合、治療を継続したとしてうまくいく可能性はあるのでしょうか」というものです。

 

しかし、この質問への回答はとても難しい。50歳以上でも自然妊娠する方はするし、AMHが0.01でやっと育った卵子が、FSH>100の周期で時間をかけて育ったたった1つの卵子が、採卵5回連続で空胞だった末6回目の採卵で採れたたった1つの卵子が、あるいは、卵巣機能が悪すぎて3年以上通院を続けて卵胞発育すら1度もなかったが3年越しに卵胞が育って採卵できた1つの卵子が、さらには、移植25連敗で26回目の移植で、あるいは10回の流産死産を繰り返して11回目の妊娠で・・・これらは全て、出産を迎えられた方の実話です(リプロダクションクリニックの治療例ではないものも含みます。あくまでも「こういう場合でも妊娠例がある」という事例紹介のために記載したものであって、「当院の治療例の紹介」ではありません。念のため)

 

もちろん、こうした方々は一握りであり、こういう方が多いわけではないです。でも、奇跡を目の当たりにすると、どんなに難しそうに見えても、軽々しく「少しも可能性がない」なんて言えないよね、とも思ってしまいます。そして、少しでも可能性があるのか、全く可能性がないのか、なんてことを考えることには、あまり意味がないのではないかと思います。

 

 

いずれにしても、今後の見通しが明るいとは言えないよねとなった時の治療のやめ時は、非常に難しいです。例えば、「今回で最後の採卵にします」「今回移植したら治療はやめます」とおっしゃる患者さんは結構おられるのですが、実際にそれらの方が本当に宣言通りに治療をおやめになるかというと、その後も継続している方も多いです。いかに治療終結が難しいものであるかということを示しているのではないかと思います。もちろん、なかなか踏ん切りというのが普通であり、そういうことは恥ずかしいことでも珍しいことでもありません。

 

しかし、それでもいよいよもって年齢的、経済的、身体的、あるいはその他の理由で、どこかで区切りをつけなければならないとなった時は、どうしたらよいか。

 

もちろん自分たちの見通しはどうなのか、治療を継続したとして可能性はあるのか、複数の医師や看護師に色々相談するのもありでしょう。心理カウンセラーも、まさにそういう時のためにおります。色々と話すことで受容が進むこともあります。そういう話をお伺いすることも私たちの仕事です。

 

でも、最終的な決断は、やっぱり自分たちでしてもらうしかないです。そこで禍根を残すような終わり方をして、まだまだ折り返し地点の人生において、10年後も20年後もずっと後悔し続けるのはイヤなものです。やるだけやりきった、夫婦でも色々相談し考えて、これだけやればもう後悔はないと思えるような、そういう「終わり方」って、その後の自分の、あるいは夫婦の人生において、ちゃんと前を向いて胸を張って生きていくために大事なことじゃないでしょうか。

 

最終的に難しいかもとなった時、自分たちはどういう終わり方を選ぶのか、どういう終わり方なら納得なのか。大切なのは、ご夫婦なりの「終わり方の美学」であり、「納得感」です。クリニックの治療方針や医師の治療姿勢(医師がどのくらい親身に頑張ってくれたのか)も、こうした納得感において大きなウエイトを占めます。

 

妊娠判定時。「今日で私は治療を終えます。今までお世話になりました。ありがとうございました」と言われることがあります。時折、「結果は出なかったけどリプロで治療してよかった」「やりきれたと思うのでここに来てよかった」と言っていただけることがあります。結果も出せてないのによかったなんて優しい言葉かけてもらえる資格なんてありませんが、せめてそう思ってもらえるような治療を提供できていたのであれば救いがあります。

 

私たちは常に全力を尽くしますが、どれほど頑張っても全員にハッピーエンドをお届けすることは不可能です。最後の砦と呼んでいただけるクリニックであるからこそ、治療を終結しゆく方々から目を背けず、しっかりと向き合って考えなければならないと思っています。

 

その上で、奇跡起こしたるで、という野心は決して忘れません。

 

「奇跡という言葉は、それが起こることがあるから存在する言葉である」

筆者が大切にしている言葉です。