今日・明日と、日本受精着床学会が仙台で開催されています。筆者も仙台は10年住んだので思い入れのある場所です。

 

以前は、日本生殖医学会は大学メイン、日本受精着床学会はプライベートクリニックメインなどと言われたこともありましたが、以前ほどの様々な差はないように思います。生殖関連学会が年1回だと、その期間に医師が一斉に学会に参加してしまうと留守番問題が生じるので、年2回に分散しているのは現場としては気が楽だし、発表機会の増加にもつながります。海外の学会が、ヨーロッパ生殖医学会とアメリカ生殖医学会が2大学会になっているようなものです(日本にも世界にも他にたくさん学会はありますけど)。

 

ところでご存じない方も多いと思いますが、日本の生殖医療の聖地は仙台です。東北大学医学部で日本初の体外受精が成功し、東北大学医学部付属病院で1983年に出産となりました。世界初の体外受精(1978年、イギリス)から遅れること5年ですので、意外と早いような遅いような、いろいろ感想はあるでしょう。

 

当時は、胚凍結の技術はおろか、胚盤胞培養の技術すらありませんでした。いや、もっと言えば、トリガーの概念もないので、LHを随時モニターしながら夜に採卵とか、経腟採卵の技術すらなく腹腔鏡下に卵巣に針を刺して採卵していたとか、そんな時代です。

 

今は手術室と培養室が隣り合わせでつながっているなんて当たり前ですが、ほんの20年前までは卵子が入ったディッシュを空調すらろくに効いていない廊下とか下手すると階段を手にもって歩いて移動、なんて全然普通でした。培養液もレシピがあって手作り、私もだいぶ手伝いました。培養器も当院にはものすごくたくさんありますが、当時は大きな冷蔵庫みたいなものが1~2個あって、全部そこでまとめて培養、みたいな施設が多かったのではないかと思います。で、もちろん妊娠率が悪いから若い人に3個とか5個移植とか普通?にやっていて、不妊治療と多胎児が問題となり、産科病棟には医原性の多胎児(双子、三つ子、四つ子、それ以上)であふれかえっていたものです。今から比べれば設備投資も少なくて済むので、年に数件しか採卵していないなんていう、今では考えられないような施設も当時はあったのです。今よりは格段に妊娠率は悪いとはいえ、そんな環境でも妊娠出産される方もおられたわけですから、すごいなあと、今振り返ってあらためて思います。生殖の業界に日進月歩というほどの進歩の速さは、少なくともここ数年はほとんど感じませんが、20年の歩みを考えれば大きな進歩です。昔に戻りたいとは思わないけど、当時も仕事結構楽しかったのを覚えています。

 

経験年数と実力はイコールじゃなくて、若い先生にも実力のある先生はたくさんいると思うので、自分は昔からやってたからいろんな経験積んでてすごいんだ、みたいな考えはほんとダサいと思うけど、でも若い先生方で勉強とか手術の実力はある先生でも、黎明記のそういう時代のことって意外と知らないんだよね。そういう時代があって、その上で今があるんだってことは、ぜひ知っていて欲しいなとはいつも思います。愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ、という言葉の本当の意味はちょっと違うようですけど、とりあえず歴史は大事!

 

聖地仙台からだいぶ話がそれました。今年も当院からもたくさん演題を出しております。みなさまへの日々の医療へどんどん還元できるとよいなと思っております。では今日はこのへんで。