2011年3月11日14時46分、東日本大震災。毎年3月11日はこの話を書くことにしている。筆者は東北の地でガチで被災した。トラウマはないつもりでいるが、3.11という日付、あるいは14時46分という時間を見るたびに必ず反応してしまう。そういう特別な思いはいつまでも消えないのだと思う。地震のエネルギーで比較すれば東日本大震災は阪神淡路大震災の1800倍とも言われている。まさに「終わった・・・」という感じしかなかった。当日だけで震度5以上の余震が13回(震度4まで入れれば54回)、その後1か月で震度4以上の余震が150回来る日々。星の数ほど悲しい思いもした。こんなことは、もう一生経験したくない。

さかのぼること16年前、1995年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災。3.11と比べてしまえば地震全体のエネルギーこそ小さいが、こちらは都市直下だったこともあり、実は東日本大震災に比べて決して局地的な被害は決して小さかったわけではない。テレビから流れる倒壊したビル、崩落した阪神高速に言葉を失った方も多いことだろう。地震に強い日本の建物のイメージがあるかも知れないが、これは1981年の建築基準法改正(いわゆる新耐震基準)によるところが大きい。1995年当時はまだ旧耐震基準の建物が多かったが、阪神淡路で新耐震基準の有用性がより明確になり、建て替えや耐震化工事が進むきかっけとなったことは確かである。その結果、東日本大震災では、ビルの倒壊や高速道路の崩落などは全くといっていいほどなく、被害の大半は津波にによるものだった。津波による被害は悲惨だったが、少なくとも内陸では教訓は生かされたのだ。

奇しくも、2011年3月9日、筆者は仕事で神戸にいた。その日は所用を済ませるとすぐに伊丹から仙台空港に飛んだ。その2日後、仙台空港は水没。何が良かったとかそういうことではないが、複雑な気持ちがまだ残る。そして、被災後の東北から見た神戸はまさに復興のシンボルであり希望そのものだった。筆者の非定期出張・旅行先第1位でもある神戸には、今でも特別な思いがある。


大震災で何が困るか。少なくとも都市部は、よほど古いビルでなければ今時倒れるビルも炎に包まれるビルもそうそうないだろう。エレベーターへの閉じ込めも、今時のエレベーターは地震が来たらすぐ止まる、停電しても最寄り階まで走れるくらいのバッテリーは積んでいる。ちなみに、汐留シティセンターのように1階から41階まで止まらないようなエレベーターだったらどうするのか。これも法律で中身にボタンはなくても10階に1階は外に出られるドアを用意しなければならないと決まっている。あくまでも一般論だが、リプロ東京やリプロ大阪が入居するような最新型のビルでは、被災してもビル内にいる限り安全が保たれる可能性は非常に高い。そもそも汐留近辺は避難が想定されていない(これを地区内残留地区と言って、地区全体の不燃化が進んでおり、万が一火災が発生しても、地区内に大規模な延焼火災の恐れがなく、広域的な避難を要しない区域として東京都が指定している地区のこと。地区そのものが避難所と同等の安全性を持っていると考えてよい。汐留近辺も地区内残留地区に指定されている。もちろん港区が指定した避難所を利用すること自体はできる)。困るのは、交通、インフラ(電気・水道・ガス・電話)、物流である。

セキュリティ上、あまり多くを書くことはできないが、様々な場合を想定して、リプロは、安全管理委員会の企画で毎回テーマを決めて年3~4回、防災訓練を実施している。良い意味でマンネリ化するくらい、色々なことがきちんとできてきたのではないかと思っている。そのくらいでないと、いざという時に体が動かない。様々な備え、もしこういう時はどうするかというマニュアルも備え、定期的に見直しも行っている。もちろん、こうした備えが役に立つ日が決して来ないことは願っているが、きちんと定期的に訓練を行うこと自体、何があっても患者さんを、あるいはスタッフお互いを守り抜くんだという意識の熟成にもつながるのではないかと思っている。

だんだん風化する記憶。しかし、安心・安全に対する備えと意識だけは決して風化させてはならない。そんな決意を新たにした11回目の3.11。

 

 

 

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3.11シリーズ