「そうさく畑収穫祭2014春」まで後一週間!!
どうも、その事実に驚きを隠せない淡夏です。
いやあ、時間は待ってはくれないんですね、ハハ……。
何度か告知していますが、私達“repro”も参加します!
ブースの場所はインテックス大阪 三号館 F10bです!!
是非お立ち寄りください!!
さてさて、今回は出来たてほやほやの『repro 2号~秘密~』の中から鳴向さんの新作『雨傘』の紹介(という名の何か)をば。
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「自分」というものについて想いを巡らすという経験は、誰しもあるはずだ。
特に思春期から高校を卒業するまでのモラトリアムにおいて、その悩みは世界を根底から揺るがす程、途方もないものとなる。
多くの場合、社会を知ることで自身を客観視し、「自分」と周囲との折り合いをつけ生きていくことになるだろう。
だが、皆が皆、そうして生きていけるわけではない。
社会は時として暴力的に、「自分」という存在の弾圧を始める。
「空気を読め」という無自覚な暴力の渦は常に私達を取り巻いており、それに苦しむ人間も一定数いる。
この『雨傘』は、そんな苦しみのただ中にいる少女を描いた作品である。
一人一人が傘を持つ、雨の止まない町。
傘にはその人の心を表す文様があしらわれている。
主人公の傘にあるのは、白地に、黒い薔薇。
その町で黒色は異端とされている。
主人公は傘の色でその人の在り様が決められてしまう世界に疑問を抱き、心にわだかまりを抱えている。
このようなファンタジックな設定に、繊細な雨の描写というオブラートに包まれてはいるものの、この小説には、内在化された「自分」に対する他者の視線というものが色濃く反映されている。
その為、読者には「辛い」という印象を与えることになる。
しかし、その「辛さ」も、含めて共感できる読者は多いのではないだろうか。
他者の視線というのはどこまでも付き纏う。
その視線との摩擦により、自意識はどんどんすり減っていく。
その痛みを感じる人にこそ、この作品は効く。
もし思い当たる節があるのなら、是非手にとっていただきたい。
その痛みを感じるのがあなただけではないことが、きっと分かるはずだ。
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堅苦しい感じになってしまいましたが、『repro 2号』をよろしくお願いします!!
何事にもそれに見合った体力って必要なんですよね。
集中力って、精神的な体力なんじゃないかと、僕は思うのです。
だから、勉強する習慣というのは精神と脳の筋トレなんじゃないかな、と。
……えー、何が言いたいかと申しますと、勉強しろ、俺。
そんなこんなで休日を趣味でエンジョイしている淡夏でございます。
いやあ、勉強が進まない以外はホント有意義な休日なんだけどなぁ。
さてさて、告知が遅れておりますが、我々リプロは3月30日㈰に行われる「そうさく畑収穫祭 2014春」に参加します!
ブースは三号館、F10-bです。
会場に来られる方は、ぜひお立ち寄りください!!
……とまあ宣伝はここまでにしておいて(おいおい)。
今週の『凪のあすから』の感想をば。
ネタバレ嫌いな人、そもそも興味もなく見てない人は回れ右を。
※それまでのお話は公式とwiki参照のこと。
「二十ニ話 失くしたもの」
今回のお話
紡の腕に表れた魚面疽から“うろこ様”が近くにいると確信した光達は、エッチな本とたけのこの煮つけを餌にうろこ様探しを続ける。
汐鹿生や地上のこと、そして、様子のおかしい“まなか”のことを聞きだすために。
冬眠から目覚めたまなかは、必要以上に明るく振舞っている。
それは、所々記憶が抜けていることが原因らしい。
違和感を拭うために、光はまなかに思っていたことをぶつけてしまう。
自分が気持ちを抑えられず抱き締めてしまったことも。
好きだと、想いを告げてしまったことも。
本当に、覚えていないのか、と。
申し訳なさそうなまなかを前に、堪らず駆け出す光。
すれ違った美海は、光を追いかける。
走りに走った後、二人は小さな祠に辿り着く。
そして二人は、そこに居た“うろこ様”から、まなかが何を失ったのかを聞くこととなる。
まなかが失ったのは、「人を好きになる心」だったのだ……。
……一言、辛い。
この作品の皆、誰かを好きな気持ちを大切にしたいから頑張ってきたのに、その結果がこれってのが。
海神様も勝手よな。
生贄が自分のこと見てないからって、“えな”奪ったり感情奪ったり。
まあ、海神様の意思じゃなくて、分離した感情の方がしでかしたことだから、当人にもどうしようもないんだろうけど。
残り四話。
OPの新カットからは、美海にまで生贄フラグが立ってるのがなぁ……。
ハッピーエンドになって欲しいけど、七角関係の時点で誰かの想いは叶わないし、それ以前に世界が危ないし、まなかのこともあるし。
全部が全部うまくいくことはないんだろうけど、せめて皆が、救われる展開であれば良いのに。
そんなありふれた願いを胸に、また一週間後の放送を待つ淡夏でした。
集中力って、精神的な体力なんじゃないかと、僕は思うのです。
だから、勉強する習慣というのは精神と脳の筋トレなんじゃないかな、と。
……えー、何が言いたいかと申しますと、勉強しろ、俺。
そんなこんなで休日を趣味でエンジョイしている淡夏でございます。
いやあ、勉強が進まない以外はホント有意義な休日なんだけどなぁ。
さてさて、告知が遅れておりますが、我々リプロは3月30日㈰に行われる「そうさく畑収穫祭 2014春」に参加します!
ブースは三号館、F10-bです。
会場に来られる方は、ぜひお立ち寄りください!!
……とまあ宣伝はここまでにしておいて(おいおい)。
今週の『凪のあすから』の感想をば。
ネタバレ嫌いな人、そもそも興味もなく見てない人は回れ右を。
※それまでのお話は公式とwiki参照のこと。
「二十ニ話 失くしたもの」
今回のお話
紡の腕に表れた魚面疽から“うろこ様”が近くにいると確信した光達は、エッチな本とたけのこの煮つけを餌にうろこ様探しを続ける。
汐鹿生や地上のこと、そして、様子のおかしい“まなか”のことを聞きだすために。
冬眠から目覚めたまなかは、必要以上に明るく振舞っている。
それは、所々記憶が抜けていることが原因らしい。
違和感を拭うために、光はまなかに思っていたことをぶつけてしまう。
自分が気持ちを抑えられず抱き締めてしまったことも。
好きだと、想いを告げてしまったことも。
本当に、覚えていないのか、と。
申し訳なさそうなまなかを前に、堪らず駆け出す光。
すれ違った美海は、光を追いかける。
走りに走った後、二人は小さな祠に辿り着く。
そして二人は、そこに居た“うろこ様”から、まなかが何を失ったのかを聞くこととなる。
まなかが失ったのは、「人を好きになる心」だったのだ……。
……一言、辛い。
この作品の皆、誰かを好きな気持ちを大切にしたいから頑張ってきたのに、その結果がこれってのが。
海神様も勝手よな。
生贄が自分のこと見てないからって、“えな”奪ったり感情奪ったり。
まあ、海神様の意思じゃなくて、分離した感情の方がしでかしたことだから、当人にもどうしようもないんだろうけど。
残り四話。
OPの新カットからは、美海にまで生贄フラグが立ってるのがなぁ……。
ハッピーエンドになって欲しいけど、七角関係の時点で誰かの想いは叶わないし、それ以前に世界が危ないし、まなかのこともあるし。
全部が全部うまくいくことはないんだろうけど、せめて皆が、救われる展開であれば良いのに。
そんなありふれた願いを胸に、また一週間後の放送を待つ淡夏でした。
こんばんは、鳴向です。
以前お話した、「冬眠する熊に添い寝してごらん」ですが、大阪で見るっつってたのに待ちきれなくて東京に見に行ってきてしまいました。
やーすごかったです。
蜷川幸雄の舞台は授業で一部分をチョロッと見たことあるだけだったので、初蜷川だったのですが、もっと抽象的で難解な舞台かと思っていたら想像よりも具体的な演出でした。
ただ、その具体が抽象を帯びているというところにやはり巨匠の凄さを見た気がします……。
難解さは主に脚本に依り、演出はそこに補助線を引いていった感じですね。
脚本を読んだ段階での理解は<こんな感じ(前回の記事)>だったのですが、舞台として形になったものを見て、文字で読んだだけでは分からなかった様々のものがつながったように感じました。
脚本の状態では、行き来する時空や場所、三つ巴の恋模様や血の話など、さまざまな要素がばらばらに絡み合っているように見えていました。
けれど舞台上で現れたそれらは、全てが一つに統合され、非常な強度を持って顕現していたように見えました。
それぞれの要素を結びつけたのは、演出であり、役者であり、そして何より演劇的なイメージの想像力でした。
それは文章だけ見ていても、言葉に表される理論だけを追っていても決して出てこないものです。
先日の「文藝」に載っていた論考で、2000年代の後半には文学とは異なる演劇や音楽のジャンルからの書き手の流入が目立ったということが述べられていましたが、そこで期待されていたのは正しくこういった力なのでしょう。
文学と演劇とのせめぎ合いによるダイナミズムがビシバシでした。
感想やレビューでよく言及されていた、「百年の想像力を持たない人間は二十年と生きられない」という台詞の意味を、改めて考えさせられてしまいます。
こんなダイナミックな想像力を持ちたいなぁ。
さて、ここから先はもう少し具体的に場面に触れつつ、この舞台について考えていきたいなと思っております。あまりこういうの上手くないので、劇を見た人しか分からないような書き方になっているかもしれなくてすみません。
以下むちゃ長いです…
【ネタバレ拒否の方はブラウザバック推奨】
①「まわる」ものたち
文章の戯曲の段階ではばらばらに存在していた、熊猟師の時間、明治の石油村、現代、そして犬の時間。それらを演劇の三次元空間においてつなぎとめているものが、「まわる」ものだったように思います。大仏の周りをぐるぐるとまわる犬たち、石油を汲み上げ回り続ける水車、レーンを流れる回転寿司、そして首のまわる大仏。これらのものたちの視覚的な効果によって、飛躍する時代、舞台は感覚の次元で統合されていきます。
そしてまたこれらの「まわる」ものは、この物語のテーマとして、輪廻、あるいは廻る運命をも暗示していたのではないかと思われます。それは、舞台になったときに頼母子講の説明のシーンが増えていたことも関連しているかもしれません。頼母子講は、母親たちの互助共同体で、メンバーで出資した資金を順番に、輪になって貸しあっていく制度だといいます。戯曲の段階では頼母子講に関する説明はさらりと流されていて、舞台背景といった感じの扱いでした。しかし、劇ではかなり執拗にこの説明がなされます。それは観客の理解を助けるためであるかもしれません。しかし、この金が次は誰に巡るのか、といった趣旨の台詞が、そして何より頼母子講のシステム自体が「まわる」イメージを連想させます。ですからこの部分は、そういったテーマを浮かび上がらせるために、意図的に強調されていたように思います。
②そこにある・いるということ
文章の状態では、舞台上の大仏はト書きに書かれているときしかなかなか意識上にのぼることはありませんでした(自分が素人だからかもしれません)。しかし実際の舞台では、かなり長い間大仏が舞台上にあります。そこで圧倒的な存在感を放つのが、大仏の目線です。大仏は、やや斜め上から舞台を見下ろす姿勢で存在し続けます。それがあると、どうしても神の目線という風に意識してしまいます。そこに、さきに述べた「まわる」ものたち……とくるとやはり輪廻のイメージが強化されますね。
そしてもう一つ、舞台上に上がることで文章にはなかった強烈な効果を生んでいるのが、ババ友たち。文章では「たくさんのババ友たちが現れる」とだけ書かれているのが、実際にババ友たちが何人も何人も現れて舞台上でそれぞれなんやかんやしていると、ものすごいパワーが生まれます。あれはすごかった……余談ですが多根彦がババにほっぺたチュンってつつかれて苦笑してるのすごく面白かったです。ババやべぇ。そんなババ友たちは、みな顔を白塗りにしています。これはババ友たちだけの特徴です。冒頭、熊の母親と共に現れる数多の母親たちと兼ねたキャスティングであるからかもしれませんが、ギリシア悲劇を多数手掛けてきた蜷川演出だということを踏まえると、彼女らには「コロス」の役割が与えられており、他の登場人物たちとは立場が違ったのでは、という見方もできそうです。コロスはコーラスの原型となった言葉で、昔の劇では歌によって劇の内容を伝える手助けをする、合唱隊の人たちがいたのだそうです。悲しい場面では観客の先手を打って嘆き悲しみ、ここが泣き所である、というのを分からせる、というような役割だったようです。役者とは違う、役者と観客の橋渡しをするような立ち位置だったという話だったかと記憶しています。この舞台でのババ友たちも、物語のクライマックスの場面で背後に登場し、嘆きと祈りを捧げます。それは正しく観客である我々の心情の反映であり、彼女らが登場人物を見る眼差しもまた、我々のものでありました。そういう意味で、このババ友たちという人物は、舞台となることで新たな価値が付与されたと言える気がします。
③声に出して読まれるということ
文章に書かれている時は全ての文字が数ミリ四方の同じ大きさで均等に印字されているのが、言葉になって音になると、それぞれが違った密度で響いてくるのが面白かったです。特に石油村の村歌の談義のところや富山の薬売りの口上は、台詞として聞いている方が文字を追うより楽でした。
そして、音声になることで、登場人物たちの言葉もまた違った色合いを帯びたように感じました。たとえば、ひばりの詩。文面だけではかなり勝気な印象の詩でしたが、それを鈴木杏は絞り出すように、泣き笑いのような表情を浮かべて朗じていて、非常に複雑な色彩を持った言葉として立ち現われてきました。また、一の薀蓄。戯曲の状態では、ああこれは作者の言葉だな、と感じていたのですが、舞台の上での一は、エネルギーがどうとか石油がどうとか、そういったことに関心を寄せていて、なおかつそれらの話(の中にある投影?)によって何らかの感情を表そうとしているのだなと受け取ることができました。演じられることによって一像が統合されたというか。そしてまた多根彦は、逆に戯曲の中では真実かなと思っていた陰謀論の話が、周囲を巻き込み具現化していく妄想の世界のように見えたり。上田竜也はそんな多根彦の語る世界、をこの世に召喚する多根彦、を憑依させているかのようで圧巻でした。この舞台の稽古の初日に、戯曲の作者古川日出男が文章をまるまる朗読したそうですが、読まれることに耐えうる、むしろ読まれることで強度を増す文章というのは、本当にすごいと思います。
④つながるということ
演出の中でもかなり印象的だったのが、冒頭と劇中で現れる回転寿司のシーン。まず冒頭は、いきなり舞台の後ろがパカッと開くんですよね。そうすると後ろは搬入出口で、もう向こう側の道路が見えている。おそらくは劇団員の方でしょうが、通行人が横切り、時には車も通る道路がすぐそこに開けています。やがてそこからふらふらと一匹の犬が入り込み、物語が始まる……というのが冒頭の演出です。これにはかなり驚かされました。
そしてもう一つの回転寿司は、ネットでも話題になっていましたが、本当にコンベアで回る回転寿司が劇中で現れます。それも舞台上を回るのではなく、客席の前方中央ブロックをぐるりと囲むようにレーンが設置されるのです。通路にはお客さん役の役者さんが座り、時折舞台に向かって注文を飛ばします。あまりにも色々注文するので一が「流れてるの取ってよ!」と言い返したり。
そんなこれらの演出がなぜ必要だったのかについて、考えてみました。もちろん何もなくても派手で印象に残る演出ですが、こういう演出でなければならなかった理由として、少し先の話と順番が前後してしまうかもしれませんが、この物語は観客を「巻き込まなければならなかった」のです。この物語は、特殊な一族による輪廻と歴史の繰り返しの物語であると同時に、エネルギーを巡る人間の歴史の物語でもあります。エネルギーを欲望するがために引き起こされてきたさまざまの悲劇、争いの姿も描かれています。熊を巡る因縁の呪いは、熊猟師の一族にのみ降りかかるのかもしれません。けれど、それで自分たちには関係ない話なのだ、と安心してはいけない。この物語に描かれたエネルギーの問題は、われわれ観客とつながった地平のものなのです。それを象徴するのがこれらの演出だったのではないでしょうか。ホラー映画でいうなら、事件が解決してやれやれと思った頃に、「実はまだ解決していなかった!」と見せる、あんな感じの。
⑤輪廻とその否定
この辺りからは舞台で見て気付いたことなどになりますが、上述の感じで、舞台で見ると印象に残る部分が変わったんですよね。その内の一つが、私と母は重ならない、というひばりの台詞。そして熊猟師一代目の、鉄砲を包んでいた犬の皮は、今連れているこの犬の母親でもそのまた母親でもない、どこの犬とも分からない野良の毛皮だ、という台詞です。これが印象的だった理由として、先に述べたように舞台verでは色濃くなっている輪廻のイメージ、が挙げられると思います。これらの台詞は、その輪廻のイメージを否定するものだから、違和感があったのです。母親たちの繋がり、連鎖、そして熊猟師の血筋と、世代間の繰り返しがたくさん出てくる話の中で、なぜ輪廻のイメージを否定しなければならないのか。それは④で考えたのと同じように、これが特殊な一族の話ではなく、我々全員に関わる問題であると訴えるためでしょう。そしてまた、完全な輪廻の否定は、この物語の構造にも関係している気がします。つまり、それぞれの時代で起こっていることが、輪廻の鎖によって完全に一対一対応しているわけではない、ということの暗示なのではないかと思われるのです。熊猟師一代目と熊と犬、また明治時代の梅原、洞子、古塚の関係は完全に多根彦、ひばり、一には対応しない、似ているけれどもそれぞれの時代の人たちが歴史に多様なバージョンを積み重ねてきて、そして現在なのだという構造を示しているのではないでしょうか。完全には一致しない、でもどこかでつながっているそれぞれの時代……これって推理小説のようにすべてをロジカルに組み立てるより難しいことのような気がします。すごい。
⑥富山の薬売りとは
他に、舞台で見て「あ!なるほど!」と思ったことに、富山の薬売りという人物がなんだったのか、というのがありまして。戯曲で見たときはこの人物がなんなのか全然わからなかったんですけど、舞台で見たら一発でした。傘を被って、背中に行李を背負っている、という薬売りの外見が、石油村で石油を背負った人々とそっくりなんですよね。彼らはエネルギーの塊、石油を運搬し、世界を回します。薬売りもまた、熊猟師から買い付けた熊の胆を、どこぞかへ売りに行きます。薬売りは、熊猟師のいるところならどこへでも熊の胆を買い付けに来ると言いますが、彼自身は熊猟師の時代とロシア、そして物語の最後にしか出て来ません。ところが、薬売りのいないシーンでは、この石油を背負った人々がいるのです。そうすると彼のシルエットはほとんどずっと舞台上にあることになるのです。彼がいることで熊猟師は熊の胆を売ることになり、貨幣経済へ、つまりは世界の中へ巻き込まれていく。薬売りは、そういう存在なのです。だから最後、一が世界の運命に巻き込まれていく時にも、彼が現れる。そうすると、薬売りが扱う万能薬、熊の胆とは何かもぼんやりと見えてきます。彼が売るのは万能薬、ところが薬の入った行李と対応するのは背中に担がれた石油。では薬の効能である万能とは、何に対して万能なのか。それは、エネルギー問題に対する万能薬、なのではないでしょうか。要するに、核エネルギー。こうして、この物語に潜む大きなテーマが示されていたのだなあ、と感慨深く思いました。
⑦追加シーンと多根彦について
戯曲にはなかった大きな追加シーンとして、二幕の初めに、祖父と一の会話が増やされていました。おじいちゃんがなんだかノリノリで踊ったりして楽しいシーンなのですが、ここに脚本と演出の視線の違いがあったような気がして、興味深く見ました。内容としては、一が祖父に「猟師として生きること」を問う場面になります。祖父は一に、猟師として生きることは人よりも少し己の残酷さを意識しながら生きることだと説くのですが、狩るものとしての無邪気な残酷さ、というのは正しく一のテーマですね。と誰かがツイッターで指摘しているのを見て唸りました。なるほど。そして祖父は、女には抱いていい女とだめな女がいる、と言います。初孫だからお前がかわいい気持ちはあるが……と一を見遣る祖父の言葉は、名前こそ出さなくとももちろん多根彦のことを言っているのでしょう。戯曲では多根彦は運命によって人生を狂わされる弟、という「役割」で描かれていたのに対して、舞台になるとそこには笑ったり泣いたりする多根彦という「人間」がいるわけで、この部分はそんな「人間」多根彦を扱った演出家の視点によって追加されたシーンなのかな、と思い楽しみました。
そしてまたこのシーンでは、ラストの多根彦の台詞への補助線も引かれていました。「道」の話です。祖父は昔を回想しながら、昔は熊が山から山へ自由に移動していたのだと言います。ところが道ができ、山と山とは分断される。すると熊はそれぞれの山の中でしか生きられなくなり、やがて絶滅してしまうだろうという話でした。そして、最後での多根彦の台詞。多根彦はエネルギーを巡る謀略の情報を得るため、海に道を作ったと言います。彼の道の話が詳しく言及されることはありません。けれどこの追加シーンのおかげで、そこに込められた意図が読み解けるようになるのです。それはつまり、このままでは海上の道に分断された我々はいつかは滅んでしまうよ、ということなのだろうと思います。その辺が戯曲よりも強く描かれていたように感じ、おお、と思いました。
一部ではこの多根彦が本当に主役と言えるのか、という議論もあるようです。確かに、登壇時間短いですもんね。でも自分は主役は間違いなく多根彦だと思いました。その根拠は、作中で何度か繰り返される「初めに犬ありき」という言葉。多根彦は、最初は猟師の運命を辿ろうとしていたんですよね。けれどそれを兄が奪う。そこで、その兄に呼応するように、別の運命を辿るのですが、それが、おそらくは犬? 初代熊猟師についていた犬は、熊の許へと猟師を導き、薬売りによって彼を流通のシステム上へと、つまりその時代のエネルギー戦争の現場へと引きずり出します。ところが犬は鼻が利かなくなるからとエネルギー源である蜂蜜を与えられず、猟師が熊と契った後に姿を消します。一方の多根彦はというと、猟師である一にひばりを奪われ、代わりに一をエネルギー謀略の渦中へと巻き込みます。彼は一に、謀略に対して鼻を利かせるのだ、エネルギーのにおいを嗅ぎ分けるのだ、と言います。そして彼が従えているのが、犬。どこの犬とも知れない犬を二匹、連れて現れるのです。もう一つ多根彦が犬であると考える根拠に、また最後の方の話になりますが、一が電話越しに多根彦に「魔術みたいだな」と話しかけると多根彦が「マジュ……? ああ、まじないのことか」と返すシーンがあります。魔術なんてそんなに難しい言葉でもないのになぜ多根彦はまじないと言い直したのか。「まじない」は漢字で書くと「呪い」。そして冒頭、熊猟師初代が熊と契る場面で、熊や犬、ババたち「母親たち」は、呪うか? と問いかける。おそらくここが対応しているのだと思います。呪いを使う側になった多根彦は、猟師とは違う、熊や犬の運命を進み始めた(契る場面で犬がどうしていたかの詳細を忘れてしまったので、少し曖昧ですが)。そして最後の最後には姿を消し、いなくなっているのです。けれど、「初めに犬ありき」。この物語は犬がいなければ始まらなかった。犬がいなければ猟師が熊を見つけることはなかった。多根彦がいなければ一とひばりは出会わなかった。一がエネルギー戦争に巻き込まれることはなかった。大きな運命、世界の流れの前に個人の意志が押し流され、飲み込まれていく物語の中で、多根彦は間違いなくもっとも人生を歪められた人物だと思います。一はほとんどすんなりと運命を受け入れてしまうし、ひばりはやや傍観の立場だし。だからこそ、この物語においての悲哀、そして狩られるものとしての悲哀を背負った多根彦こそがやはり主人公と捉えるにふさわしいと自分は思います。
あと、これは完全に余談ですが、多根彦のベビーカーについて。斉藤美奈子が「妊娠小説」において、森鴎外の「舞姫」でエリスが気狂いになったのは主人公の裏切りによってではなく、襁褓を用意したこと、つまり妊娠したことが原因だったのだ、という説を述べていたのを不意に思い出したのですが、だとしたら多根彦が狂ったのもまた、ベビーカーを用意したことによるもの、つまりひばりの妊娠によるものだったら……と考えてみました。が、「舞姫」の話は物語中随所に現れる白い布を鍵にした考察なので、ちょっと比較にはなっていないかもしれませんね。言いたかっただけ。
⑧ラストについて
劇のラストの場面が、戯曲の状態よりも賑やかになっていて、この舞台の意味するところがより鮮烈になっていたように感じました。舞台中央の仏像の胴が開き、その中で熊が手招きしています。そこへ蜂蜜の瓶を手に持った一が中身を舐めながら近づいて行き、熊と共に大仏の中へ消えていきます。舞台上には薬売りと犬、ひばりが取り残され、薬売りと犬は連れ立って、最後にひばりが一人で舞台を後にし、幕切れとなります。手招きする熊、というのは劇中他のシーンでも一度出てきます。それは日露戦争の場面に切り替わるとき。ト書きが舞台に投影され、手招きする熊の上には「争いを呼ぼうよ」という言葉。そしてそんな熊が手招きするままに、一は大仏の中へ引き寄せられていきます。一の持つ蜂蜜はエネルギーであり、石油を暗示するもの。それをべろべろと舐めながら熊とともに眠るという行為の指し示すものは、おそらくエネルギーを巡る、もっと大きな規模の戦争、を想定しているのでしょう。薬売りと犬が連れ立って行くのには、彼らがまだまだ飽くことなくエネルギーを探し、そして欲望させようとしているようでぞっとさせられます。そして最後、それらを眺めてから一人去るひばりには、批判的視点が与えられているように見えました。冬眠をした末路は既に多根彦と祖父の言葉で明らかになっていますが、道によって分断された世界に閉じ込められた熊はやがて絶滅してしまう。そしてそれは人間も同じこと。戯曲では熊と冬眠するのはひばりだったように記憶しているのですが、舞台では一が、何の疑いもなく大仏の中へと帰って行きます。でも、本当にそれでいいのか? 印象的な劇中のひばりの詩、「自問を」という言葉が耳に蘇ります。ひばりは踵を返し、舞台を後にします。答えは言わない。それはもう彼女らだけの問題ではないから。それは、この舞台を見、空間を共有した我々に委ねられているのです。ということが演出により、戯曲以上に明確にされていたように思いました。
内容が詰まっていて頭がくらくらするような四時間でしたが、戯曲だけでは見えなかったものがパズルのピースが嵌まっていくように立体的に組み上がっていくのは非常に面白かったです。
さて、若干ぐちゃぐちゃしてる上にクソ長くなってしまいましたが一応のまとめが終わりということで、これで森ノ宮では気楽に(?)楽しんでこれそうです。楽しみ!
それではまた。