今日10/1は静岡県の藤枝で公開授業です。静岡は素晴らしい観光地が多く、うなぎも金目鯛も餃子もさわやかハンバーグもぜんぶ絶品で大好きです。みんなに会えることが楽しみで、今ワクワクしながら新幹線です。
静岡と言えば、僕には学生時代の友人が何人かいて、久々に旧交を温めたいものですが、そもそも僕は仕事を終えたら即とんぼ帰り。再会はなかなか果たせません。こういうとき気軽に声がけして寄り道のできる人はいます。正直羨ましい限りです。なぜなら僕は、何を隠そうそれが苦手なタイプだからです。
やあ久しぶり
近くまで来てるからちょい会おうぜ
そんなメールを一通送ってみる。
かりに会えずとも友人は喜んでくれるかもしれません。ただ実際に会うとなると、僕は予備校講師。どこか適当な飲み屋だかBARだかで落ち合うとして、問題はその時間なんです。仕事終わりが原則22時くらいなので、そこから待ちあわせ場所まで移動して会ってお店にインした時点で、すでに23時近いタイミング。小一時間話し盛り上がってきたらあっという間に終電の時間。勤め人の翌朝は当然早いですし、真夜中まで付き合わせるのも大人になると色々と気遣われるわけです。あいつどうしてるだろ。会いたいな。そういう気持ちに忠実に、良くも悪くも何にも考えずに動ける人に、僕が少しだけ複雑な気持ちになるのは、ある意味憧れと妬みが、あい半ばするからなのかもしれません。
いやそれだけでもないでしょう。
僕は『ギアを上げる』タイプです。
これが一番大きい要因なのかもしれません。
ひとたび授業となると『ギアを上げる』
例えば芸人さんで舞台上ではめちゃくちゃハイテンションだけど、私生活では意外と物静かな人っている、はずです。僕はそれがとてもとても理解できるのです。要するに頑張っちゃう。教室で生徒たちに語りかけるときに『ギアを上げる』のは、たぶんほとんどの先生がそうでしょう。でも幾つ上げるか、そこはどうも個人差があるようです。割合いつもの感じと変わらないまま授業をする人もいれば、とんでもなく変身する人もいるはずです。どれほど変身しようとも、それは「その先生」自身なので同一人物なのは確かですが、ギアの程度によって疲労度は異なるように思います。自分で言うのも何ですが僕はルフィで言うならギア5まで上げてほぼ完全燃焼するタイプで、授業終了後、予備校なりスタジオなりを一歩でも出た僕は体感ほぼ真っ白な燃えかすになっている感じです笑。これは行き過ぎたサービス精神と過剰な不安感ゆえではないか、と自分なりに分析しているのですが合ってるのかどうか全く分かりません。というか分析の正誤や精度などどうでもいいのです。なぜって僕はこういう僕でいるしかないのですから。
つまり何を言いたいかというと、僕は授業のあと誰かと会ってワイワイできない体質だということです。渾身の力を振り絞って『僕』を出し切ったら、あとはもう何て言いましょうか、とにかくしばらくはゆっくり独りになって、発声すら控えたいのです。実際声が潰れかかっていますし。そこまで頑張っちゃってる僕の必死さが、目前の生徒らに伝わっているのかは甚だ疑問ではあるのですが、ある意味伝わっていない方がいいとも思います。とにかく、そのため、例えば帰路が同じ先生がいても、一緒の電車で帰ったり、ちょいBARに立ち寄って共に語り合ったり、そういうのが全て億劫でしんどい。いやそれを通り越して信じられないくらいの気持ちなのです。そのエネルギー。残存しているエネルギー。それ一体なに。なんで残ってるの。なぜそんなに元気なの。それくらいの気持ちなのです。いえいえ。もちろん僕だってこういう僕の姿が社会性を欠いた不自然な振る舞いに映るだろうことは分かっています。行き帰りの道みち、ずっと独りで本ばかり読んで自閉している外観が、風体格好髪の色、もろもろ相まってまともな社会人に見てもらえないだろうことはよく分かっているのです。でも周囲に自然に見えるように無理をするくらいなら、やっぱり僕は黒板の前で自身のギアを全力まで上げ切ってそこで絶命したい。それが僕の仕事ですから。本当のプロとはどういうものか、職業人の生き方はどうあるべきか、大袈裟に言うならワークライフバランスとでも言いましょうか、そうしたものが何なのか、僕にはいまだによく分からないのですが、少なくとも僕は僕が精神的にかなりワーカホリックなタイプなのだろうということくらいは理解しています。
しかしようやく最近になって、こういう自分のあり方が、どこか寂しいものなのかもしれないと思うようになって来ました。いつも忙殺されている。当たり前の人間的なコミュニケーション世界を持たない。それが当然のような人生。帰宅したホテルの部屋で、NetflixやAmazonプライムやDisneyチャンネルやAmeba TVや TVerや・・・視聴可能なはずのエンタメの時間で独り自分を癒そうとすらせず、大浴場でひと汗かくだけしか知らない極めて不器用な自分の生き方。冷静に振り返ったとき、何とも言えない気持ちになることがあります。
河合隼雄先生がいつかご著書のなかでおっしゃった言葉が頭をよぎります。人間のエネルギーというのは鉱脈のようなもので、何かの拍子で岩盤をコツンと割れば、だくだくと無尽蔵に湧き上がって出て来るものだと。自分の持ち分だけ使い切ればそれで枯渇するようなものではなく、何か色々やってるうちに手に持ったツルハシがどこかを叩き割って、油田や温泉が無限に湧出する。無限のエネルギーがほんとうは誰しもにあるものだ。だからケチケチしなさんな・・・そんな話だったと思いますが、それが僕の頭蓋骨内の伽藍でこだまするような、いやしないような。
まあ、さしあたりしばらくは僕は僕のままでいるしかないようです。
なぜならこれから僕の世界は
▶️今よりもっと目まぐるしくなるはずだからです・・・