努力と成績の関係 | 宗慶二オフィシャルブログ~とある現代文講師の日常

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大学入試予備校
現代文講師

河合塾→東進→登録者35万人YouTube予備校『ただよび』校長→online塾bridge+校長(←いまここ)

鬱屈した日常を、少しだけ斜に視ることで、風を吹かせられたら…
と思います。

受験勉強の箸休めに、どうぞ。


最近僕がハマってるものに、英語の練習アプリがある。受験英語などからするとほんの基礎的なレベルだけれど、毎日少しずつ続ける工夫が豊かにあって、なるほどこれは「売れる」はずだ。少しずつ所属リーグが上がっていくと何となく承認欲求が満たされもする。ああついにダイヤモンドリーグまで来たか・・・なんて感じで








でそのダイヤモンドリーグなんだけど、ここで一位を取れば「生ける伝説」という称号バッチが貰える。もちろん貰ったところでどうということもない。しかしバッチはバッチで、いく種類もあって全部ゲットしたくなるように上手く作られている。ポケモンカードならぬ収集癖を微妙にくすぐる仕掛けが巧妙なんだよね。そこで僕はあるとき意を決して半日ほどかかり切りになり、遂にこの「生ける伝説」バッチを手に入れた。どうだ!これでバッチは網羅したぞ!









ところでダイヤモンドリーグというのはどうもてっぺんのリーグらしく、一位になってみてもその先には進まない。その代わり何週連続でこの最上位のリーグに居残ったのかがレコードされる仕組みのようだ。



いささかやる気を減じた僕は、その分だけアプリに向かう時間が減ったようなのだ。と、みるみる順位が下落し、なんとリーグから降格ゾーン(下位リーグに落とされる集団)にまであっという間なわけ。たった1日ちょいサボっただけでこれか。競争の激しさにいささか辟易としつつも、そこは「生ける伝説」。自分でも意味が分からないが、妙なプライドがあるわけで。またポチポチと英語アプリに向かう時間を作るのです。ところがどうしても順位が上がらない。何ならずっと降格ゾーン(圏外)。つまり「お前のような成績の悪い奴は来週から下のクラスに行け」と言われ続けてるわけ。いやいやそれはおかしい。感覚的にはこれまでと努力のペースはさほど変わらない。ちょっとした隙間時間を見つけてはコツコツ努力を続けている。このせいで実際普段のような読書ペースが確保できていないくらいだから、やっぱりサボっているという感じはしない。それなのにどうしても「圏外」の場所から日々抜け出せないのです。んー。なんか不思議。そこで僕より上位者の連中30人弱の動きに注目してみたわけ。そうするとほぼ順位に変動がない。いや正確には時折大きく動く駒もある。しかしおおむね順位に動きがない。なるほど。そういうことか。つまり、このダイヤモンドリーグに属する連中は誰もが語学の学習にマジメでいわば「登り詰めた」者たち。まあ単に続けただけではあるけれど、少なくともサボるような連中ではない。言い換えれば、「毎日」付かず離れず努力を続けている。その中が大きく変動しないというのは、努力の総量が各個人で「似ている」から。つまり皆んなきちんと「ある一定量の」努力をサボらない。だから皆んなが少しずつ得点ポイントを上昇させていて、順位に大きな変動が生じる余地があまりない。たとえてみるなら全員が同じエスカレーターに並んで乗ってるようなもの。皆んな一緒にゆっくりゆっくり上昇してる。だから立ってる「位置」に下剋上が発生しにくい。しかしながら僕はこのダイヤモンドリーグで一位を獲得した男。まさかサボりを批判され「落ちこぼれ」として圏外の烙印を押されるような人間であるはずがない。しかし実際ランキングでは僕は降格ゾーン。ここから圏内に上昇するためにやるべきことはただ一つ。ある日(少なくともこのリーグ戦が終わるまでのどこかで)、一念発起して人より努力する。それは通常の生活を送る一般人がそこまでやるのはちょっと大変過ぎると認識するレベルの努力。マジメに努力を続ける連中でもおいそれとは手が届かない程度の量を、「ある日」やってみせる。それだけ。そうすると僕の順位は降格ゾーンを脱して、安全なエリアまで上昇する。その後はさしあたり周囲と同じペースに戻してよい。それはとりもなおさず今までの自分の普通に継続してきたペースで無理のない努力量だ。このダイヤモンドリーグに属するほぼ全員が「そのペース」なのだから、多少の例外的な動きはあるだろうが、あとは僕はずっと安全圏。同じエスカレーターでみんなと一緒に上がるだけ。誰も僕を「落ちこぼれ」として見ないし、次もまたダイヤモンドリーグに居残ることが許される。何だか不思議な感じもするが、「落ちこぼれ」降格ゾーンの頃と、僕の日々の努力量は何ら変わらないのに、その後ずっと安全圏にいて承認欲求が満足させられる。








これもう気がついてるよね。



予備校や塾だけでなく学校のクラスなんかでも、上下の位階構造をわざと作ってることってよくある。で生徒は自分の属する「クラス」の立ち位置で自分の成績や可能性を規定してしまう。



ああ僕はこのクラスになってしまったから、上のクラスの連中とは違うんだ。

ああ私はレギュラー組から落ちてしまったから、あの集団とは別なんだ。

ああオレはこの高校にしか進学できなかったから、あのランクの大学は難しいだろう。

ああ私は特進クラスではないから、医学部なんて無理にちがいない。





でも位階システムがそもそもどういう理屈で作られたものなのかをよくよく考えてみよう。

その中の順位などというものがどういう仕組みで変動するものなのかをよくよく見てみよう。



教師や講師だけではない。何なら保護者すら含めて、大人と言われる人間の多くが、こうした「位階構造」を前に脳死状態であることは意外なほど多い。成績表やクラス名でキミのことを見ようとする。キミの学校名や志望大学でキミに対する態度を変える。その人の職業や年収で人柄まで占おうとする。読んだ本の冊数で、付き合った異性の数で、馴染みの店の数で、出かけた外国の数で、その人の「経験」を判断しようとする。それがどれほど当てにならない基準であるのか、もう誰もが気がついているはずなのに。そんな分かりやすい「数字」という指標で世界を語るのは、もう人工知能の世界だけにしてくれないか。



自分の目で人を見て、自分の頭と心で考えて、自分の言葉で何かを語るために、僕たちはものを学んでいたのではないのか。だからこそ時に間違えたり、時に新たな可能性に気がついたりする。それが生きるということじゃないか。今キミがもし「外」から自分という人間の価値を決めつけられようとしているなら、はっきりと言っておく。そんなものはぜんぶどうでもいいことだ。論理や科学や常識なんてものは幾ら駆使したところで、1週間後の天気すら分からないのが現実なんだ。ましてや人間の可能性なんて、誰にも分かりっこない。いやもう私は楽になりたいというならもはや何も言わない。それもひとつの生き方であって、非難される理由はない。



でももしキミが、外野からのヤジと自分の思いにある種の違和感を感じているとするなら。どうしても自分の思いを大事にしたいと思うなら、いいか。誰に何をどう言われようが、決して自分をあきらめるな!!!