闘う者の歌が聞こえるか | 宗慶二オフィシャルブログ~とある現代文講師の日常

宗慶二オフィシャルブログ~とある現代文講師の日常

大学入試予備校
現代文講師

河合塾→東進→登録者35万人YouTube予備校『ただよび』校長→online塾bridge+校長(←いまここ)

鬱屈した日常を、少しだけ斜に視ることで、風を吹かせられたら…
と思います。

受験勉強の箸休めに、どうぞ。

ふー新幹線が動きません。




詳しいことは分かりませんが、駅に停車したまま今60分ほど運転を取りやめています。

前を行く新幹線の車両を点検しているとのこと。

まあそんなこともあるでしょうが、もー早く復旧してくれ。





なんだか手持ち無沙汰な気分になって、YouTube見てたら偶然ある動画を発見しました。





Shows at Home】民衆の歌/The People’s Song

レミゼラブルより






・・・いま胸が震えるような感動に言葉を失っています。



















このようなご時世だからでしょうか。

僕は自分がこれほどまでも芸術表現に焦がれていたことを思い知りました。『レ・ミゼラブル』という作品を深く愛していることに改めて気がつきました。





まだ幼いころポプラ社の本で読んだ簡易版の『ああ無情』、中学1年生のとき夏の課題で出されたビクトルユゴーの小説『レ・ミゼラブル』、ヒュー・ジャックマン主演の映画『レ・ミゼラブル』、NYのブロードウェイで観た『Les Misérables』・・・



僕にはいろんな『Les Misérables』があります。

どの作品も胸に染む素晴らしい体験でした。

人間として生きるということがどういうことであるのか何度も教えられるようです。



思い起こせば幼いころの読書には、よくわからないけれど大きな感動がありました。大人になっての鑑賞には、深い滋味の向こうに大いなる知恵を授かる感動があります。しかし幼少期の体験が決して浅いのではないと僕は思います。言語化できないだけにむしろ巨大な経験になっているかもしれません。








僕はいまこんなタイミングだからYouTube動画に打たれたのかもしれません。でも鑑賞というのはそういうものだし、それでいいのです。時代や社会が変われば、その時々で最適な解を求めるものです。答えが一つだという狭量な見識に迎合する必要は、本当はどこにもありません。








コロナに関連する報道と、それに対する過剰な排他的反応を見るたびに、僕はウイルスの脅威以上にある種の不穏さを感じます。


危機が切迫すると、ヒステリックな防衛本能にたちまち視野が狭窄するというのは、少なくとも立派な大人の見せる態度ではないでしょう。みんなして異説を責め立てることで健康な社会が得られるはずがないでしょう。


現状をしっかり見て適切に対処する。甘く見るのでもなく過敏になり過ぎるのでもなく、いわば「正しく恐れる」。



コロナ禍によって今まで気がつかなかったものに気付かされる毎日です。僕たちは誰も決して1人ではいられないことを、今や思い知ることになりました。



だからこそいろんな人が集まって、ひとつの歌をうたう。歌い方も声質もそれぞれ違う。それでいいんです。








今、できることを淡々とやる。


こんなご時世に何ができるかではなく、こんなときにしかできないこと。







これが、ただ合唱しただけの動画に見えますか。

キミには闘う者の歌が聞こえますか。