頑張れ!頑張れ!頑張れ! | 宗慶二オフィシャルブログ~とある現代文講師の日常

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大学入試予備校
現代文講師

河合塾→東進→登録者35万人YouTube予備校『ただよび』校長→online塾bridge+校長(←いまここ)

鬱屈した日常を、少しだけ斜に視ることで、風を吹かせられたら…
と思います。

受験勉強の箸休めに、どうぞ。

ずいぶん前のなんだけど、面白い言葉を見かけたことがあるんだ。

今回はその話をしよう、と思う。








『頑張れ言うな、頑張っとんねん!』






面白いでしょ(笑)?

聞いたことないかな?

この言葉をモティーフにしたグッズも出回っているようだから、割とポピュラーなフレーズらしいよ。





いかにもひねた関西弁っぽいニュアンスが関西人たる僕としては多少引っかかる点ではあるけれども。





ま、でも。 じつにユニークなスローガン(笑)。





ほら。こんな時期だからさ。

受験生のキミは、「頑張れよ」って声掛けされることも多かろうと、お察しします(笑)。

それを重く感じてしまうことだって、ままある、と思うんだ。





そこでね。 ちょこっとだけ話をしておこうと思った。










頑張れ言うな頑張っとんねん!

うん。確かにそうだよね(笑)。





一生懸命に努力してるキミたちに、さらにその上追い打ちをかけるかのように、「頑張れ」なんていう必要はないかもしれない。

努力を上塗りしなさい。あなたの今の努力では足りないのですよ・・・

例えばそうした、不足を指摘するかのようなニュアンスが、キミたちの今を、半ば否定するようにすら感じることもあるかもしれない。

一生懸命な者には、今が精一杯な者には、そこが「痛む」・・・のかもしれない。





応援や声援なんてものは、しょせん外野の感傷に過ぎない。

あるいは安全地帯からのエゴイスティックな優越感の表明。



そうも、映るのかもしれないね。

僕自身、じっさいそんな風に言われたこともあるくらいだから(笑)。











言葉ってむずかしい・・・

何かに向けて一生懸命に頑張る姿は尊いし、そういう誰かを応援するメンタリティーだって何も悪いもんじゃない。

でもそんなシンプルで真っすぐな思いすら、ありのままには伝わらない。



そう思うと、なんだか途轍もない断絶に絶望して、溜息しか出ないような気分になりそうだ。

言葉ってそれほどまでに無力なのかな・・・





ざらざらとした寂寥感(せきりょうかん)に押し潰されそうな、それはそれは虚しく哀しい経験。




その誤解はもう言葉では解けない。



分からない伝わらないという表現上の過誤の類があるのではなく、分かりたくない伝えられたくないという受け入れ側の抵抗に遭うからだ。







さて、もしもこのときのことばに、ある種の罪があるとするなら、この罪はいったい誰に帰責されるべきなのだろう。





不用意でデリカシーのない励ましのことばで誰かを追い詰めた傍観者?

(つまり、ことばを誤解されないように伝えきれなかった者)



声援や激励を余裕なくそう素直に受け止められなかった不自然な曲解者?

(つまり、ことばを誤解せず受け止められなかった者)







単純な二分論では量りきれないその時々の状況を、丁寧に鑑みるなら、もう罪や責任を議論することもできなくなるかもしれない。



なるほど人間には、他人の窮迫した境涯を密の味だと感じる不埒な心性もあるらしく、一昔前にはこれを『傍観者の利己主義』と評した文学者もいたくらいだ。





(さて、それはいったい誰でしょう(笑)?)





努力している本人はそれどころではないかもしれない。

必死なんだよこっちは。頑張ってるなんてもんじゃねーよ。そんなこと分かんないのか・・・なーんてね。

う~ん、分かる。気持ちは。






でもさ、僕は思うんだけどね。

それでもやっぱり思っちゃうので、はっきり言っちゃうけどね。






「頑張れ」という言葉ってさ。

いつからそんなくだらない意味で受け止められるようになっちゃったんだろうね。







どれだけ流行ってたのか知らないけどさ。

そんな茶化したような標語に「そうだそうだ」って簡単に乗せられて、何か楽しいのかな?

それは自分の努力をじつを言うとスポイル(甘やかしてダメにしちゃう)する言葉。

すぐ隣から自分を見守る人を傷つける言葉。

そうして頑張る自分にナルシスティックに溺れるための言葉。

それはまるで、自分の魂を簡単に譲り渡すかのような愚の骨頂。

目の前の人の、自分への、切実な思いをそうして踏みにじる行為ってなんだろう。

そんなことをして一番傷つくのは、当の自分なのに・・・

安直で軽薄な物言いに、そうまで無批判的に乗せられて、大切なことを取りこぼす蒙昧さ。

これを罪業(ざいごう)と呼んだのは、孔子やソクラテス(無知の罪)だけれど、まさに言い得て妙。

声援を力に変えるのどころか、声援を送る者を怨嗟(えんさ)する醜くひねこびた心性こそを、本来ことばはエゴイズムと呼んだはずだ







いいかい。

大事ないことを言おう。








キミの世界に意味を与えるのは、キミ自身だ。

そこでの思考方法が、自分のことばが、そこから以後の自分を形作ってゆく。



どのような過酷な現実も、それだけで自分の人生を構成するのではない。

その苦境をキミがどう受け止め、解釈するか。



いまある現状にどういう着色をするか。













キミはいまどこに立ってる?

キミはどこにいる?








言葉の意味も、世界の解釈も、僕たちはもっともっと豊かで自由であるべきだ。

世に蔓延する悪しざまで無責任なドグマに、簡単に自分を売り渡してはならない。



誰がなにをどう言おうが、キミはキミが描いた世界を生きる。










たとえばそこが絶海の小舟のうえで、自分の仲間に一頭の獰猛なトラしかいなくても。






ん?



唐突に何の話って・・(笑)?

設定に相当な飛躍と無理があるって(笑)?

でもさ。

非常にレアではあるけどさ。

世間には、そういう設定もあっていい・・・と思ってさ(笑)



あり?なし?(笑)





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(映画ライフオブパイより)







僕たちはそこで起こる出来事やそこでの見聞きに、解釈と意味を与える存在だ。

人間が人間として生きていくことが出来る理由がそこにこそある。

言葉は無力なのではなく、むしろ言葉こそが生きる力の源泉。

キミという存在の活殺自在の両刃の剣なのだよ。











もちろんそこにどのような物語を与えても、自由だ。

投げかけられた言葉をどう解釈しても自由であるのと同じことだ。







ただ、僕は思う。

あらゆる状況をどう解釈するかは自由。

それなら僕は希望を見たい。

豊かな未来を夢見たい。





それを他人がどう嘲ろうと。

そして、言葉通りの現実をゆっくりではあっても着実に作っていくような人間でありたい。


「事実」はもちろん無視できない。


しかし、単にそれだけのものだ。



僕たちは、「事実」から出発して、どんな世界へも行くことが出来る。



その意味で、言葉は、物語は、僕たちの存在と人生に、常に意味を与え続ける。







さて

もう一度問おう。







いまキミはどこにいるのだろう。







成績だとか、志望校の偏差値だとか、センターの点数だとか・・・


そんな「事実」は、たいしたものではない(笑)。





でも「事実」は「事実」だって・・・?


そんなものを基準にしてどうするの。

「事実」なんて、僕たちによって作られたものだ。


これからの未来で、いかようにでも作ることができる。




僕たちは「事実」というクールなデータを基準にして思考を不自由にする必要などない。



むしろ未来という「事実」をこちら側で新たに創造していくべきだ。


いいかい。

データなんてぜんぶ過去だ。

なにもかも終わってしまったつまらない話ばかりだ。



世界に住みたいのか、世界を作りたいのか。

そこはキミが自分で選ぶ。


ただそれだけの話だ。




本当に僕はそう思っている。

状況は変えられる。





それを変えるのは、まずは自分の思い(=言葉)だ。





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そこで、いま、


安易ではない、地獄に向き合おうとするキミに、僕から、こういう言葉を贈ろうと思う。







強く願ったように、そのままに、キミの世界は作られていく!



頑張れ!頑張れ!頑張れ!