三階の廊下。そこが、冬の間テニス部が室内練習を行うスペースであった。
何の部活にも所属していない――つまり帰宅部の千尋は、ほぼ毎日のようにここを訪れ、匠に黄色い声を浴びせている。
他の部員たちは露骨にそのことを嫌がっていたが、当の本人はシカトを決め込んでいるようで、顧問の先生が来るまでの十分間ほどは存分に匠を眺めていられるのだ。
「ナル、じゃーあたし、部活があるんで」
そう史織が告げる。史織は吹奏楽部でフルートを担当している。
「ん、じゃーね」
千尋はひらひらと手を振り、軽く別れを告げた。
すぐ近くに、お目当ての匠先輩の姿が確認できたからである。
匠は副キャプテンと何やら楽しげに会話を交わしながら、新品と思しきテニスボールをうっとりするほど綺麗な指先で弄んでいた。
千尋はキラキラ目を輝かせながら、さっと水飲み場に飛び込み、一瞬の早業で蛇口を捻ると、「私は今まで水を飲んでいました」といった風を装う。あまり意味のないカモフラージュである。
「お、また成瀬ちゃん。モテますなー、匠」
副キャプテンのハスキーな声が、吹き上げる水音に交じって耳に届く。
「違うって」
次に、照れたともうんざりしたともつかないような匠の声。
「あ、先輩、お疲れ様ですっ」
千尋は急遽濡らした口許を手の甲にて拭いながら、「今気が付きました」というように二人の方を振り向いた。
「どうも」
匠は文句のつけ所のない百点満点の愛想笑いを千尋へ放つ。
――きゅーん! 愛想笑いだろうと幸せですぅっ!
千尋は鼓動が早まるのを感じた。
たかが愛想笑いでも、恋する夢見ガールには効果てきめん。
こういう些細な出来事でさえ、夜思い出せばたちどころに眠れなくなってしまうものなのである。
まんまと匠の営業スマイル――というのも、匠はモテる訳で、女子に微笑みかけるのなど日常茶飯事だから――に騙された千尋は、
「頑張って下さいねっ」
と可愛い後輩を演じてにっこり。
今朝、歯磨きがてら研究した胸キュン(するであろう)スマイルである。
ところが、予想していたことではあるが、匠はものともせず「ありがとう」とだけ言って、再度副キャプテンとのお喋りに戻った。
千尋は副キャプテンを心底恨めしげに思いながら、室内練習のための準備を始めた一年生たちの方へ歩み寄っていく匠の背中を眺める。
匠は冬なのにも拘わらず半袖のシャツを着用していた。
その背中に刻まれた皺をぼうっと眺めていると、副キャプテンと匠の交わす会話が断片的に耳に飛び込んできた。
「匠ばっか何でそんなにモテんのよ?」
ラケットを素振りしながらそう言う副キャプテンの声には、痛々しいほどに切実さが滲み出ている。
それに対する匠の返事は聞き取れなかったが、「知らないよ」とでも答えたのだろう。
「成瀬ちゃんも割と可愛いし、小宮っちも悪くないだろ? 羨ましいよなー」
と副キャプテンは大きなため息を一つ吐く。
小宮っち、とは千尋と同じく、匠の追っかけの一年生だ。
――マジッ、あたし「割と可愛」かったりする!? よっしゃ!
千尋は小さく一人でガッツポーズ。
今の発言は完全に千尋を舞い上がらせてしまった。
それだけに、次に発された昂った声は、千尋の弛んだ頬を硬く強張らせた。
「でも、オレは最近の子を推すね! 誰ってお前、あの演劇部の子に決まってんだろ! えーと、藤城……とか言ったっけ」
――藤城? ……藤城、梨衣紗?
千尋は耳を疑った。
藤城梨衣紗といえば、日本人離れした美貌と繊細な演技力で、一年生にして演劇部のスターの称号を勝ち取った女子。
学校内では彼女の名を知らない者はいないほどだ。
そして当然、男子にも、かなり人気がある。
「綺麗だし性格よさそうだし、匠、付き合っちゃえばいんじゃねーの? ほら、美男美女カップル一丁出来! みたいな? ははっ」
「やめろよ」
匠が俯きがちに、照れたように、笑う。
赤い学校指定ジャージに身を包んだ生徒の群れの中で、白いTシャツを纏った匠だけが、スポットライトを浴びたように一際眩しく輝いて見えた。
手なんか届かないくらいに。
いくら手を伸ばしても太陽に手が届かないのと同じように、匠は、遠くにいる――
現実という名の壁に突き当たり、ガラス細工の如く繊細な心が、砕け散る。
そして破片が身を抉るように、深く深く、突き刺さっていく。
――負けないもん。
辛うじて発した言葉は、そのまま埃を被った薄汚れた床に、すうっと吸い込まれた。
心なしか、目頭が熱を帯びていた。