そろそろけいとの生誕祭かな~

 

新公演も始まったことだし(とっく、、)

 

DMMとらなくちゃ~

 

と思うも

 

ケイト生誕祭まだ先のようですね…

 

渋谷凪咲の卒業コンサートで忙しかったから?

 

 

 

18歳を超えんとする(JK卒業)ケイトが

 

NMB48を卒業するのか否か…いやがおうにも注目が集まっています

 

あの~

 

ナンバトル2「愛(なんば式総選挙)」で

 

12位くらいでしたっけ?

 

アナウンスされた時に会場が若干軽~くざわつくっていう

 

彼女のファンではない人たちでもケイトの動向を気にしている

 

 

 

 

気色の悪い話で申し訳ないけれど。。

 

私は「18の壁を超えないで卒業して欲しい派」

 

もちろん?

 

「やめろやめろ」

「卒業してしまえ!」

 

なんてあからさまに思っているのではなくて

 

そうではなくって

 

結果的に、どっちになっても

 

結果的に、そっちになっても

 

「いいね!」

 

って。

 

美しいままの綺麗な姿のままでアイドル活動を終えることの「美学」みたいな?を感じたい。。

 

 

 

かつてのあーやとか

 

あるいは、モーニング娘。で云うと対照的な

 

亀井絵里のようにスッといい間で卒業して美しい後姿を魅せて去っていくのと

 

道重さゆみのように最後の最後まで居残って、伝説まで残してやり切るのと

 

どちらもカッコいいしステキなんだけど

 

わたしはスッっと消えていった魔法みたいな感じが好き。。

 

あーやんでも亀井絵里でも「成仏できない亡霊」「卒業後にファンになる人続出」が湧いて出るって、要はまさにそーゆーところがあるから

 

 

 

 

この手の話を書くとどうしたって「痛い子の仲間入り」をしてしまう羽目になります

 

各種サイトのコメント欄と同質になってしまう

 

アイドルをやっている10代の女の子が、卒業するとかしないとか

 

蚊帳の外のわれわれには関係のないことだしど~でもいい

 

ゴチャゴチャ言わんと黙って見とけ…と

 

 

それはそれとして

 

滲み出るコメント欄のコメンテイターたちの妬みや嫉みからゴチャゴチャ言いたいのではなく

 

もうちょっと別の角度から、私はこの手のくだり(卒業するとかしないとか)が気にかかるのです

 

 

 

アイドルグループ、ひいては48系のグループというものは

 

WCW(プロレス団体)と同じなんだよね

 

まったく同じ

 

技術云々ではなく

 

「ネームド:キャラクター」のムーヴを楽しむ

 

 

WCWのレスラー「ハルクホーガン」とか「ブレッドハート」とか「スティング」とか「ゴールドバーグ」とか

 

スター選手、スーパースター

 

こーゆー「ネームド:キャラ」たちのムーヴを楽しむ

 

スーパースターのハルクホーガンが「ギロチンきっくぅ~!」とかなんとかやるから「絵になる」「様になる」会場は大盛り上がりでエキサイトするのであって

 

「お前誰やねん?」の無名の選手が同じ技を繰り出しても会場はシ~ンと静まるだけ

 

 

スター選手の誰と誰がタッグを組んで

 

スター選手のだれとだれが対立して

 

スター選手のだれが勝って誰が負けて、誰がタイトルとって、保持して

 

すべてが「脚本通り」であり脚本に従ってストーリーが進行する

 

それを見て楽しんで熱狂する、させる。

 

華麗な技の応酬というよりも、そこに重きが置かれている

 

「るちゃさん」のちょこまかした小賢しい技よりも

 

「ギロチンきっくぅ~☆」

 

一発ドォォォン!!

 

うおおおお!!!

 

で100万ドル以上の値打ちだ!

 

 

 

逆にの視点で

 

ハルクホーガンやスティング(スター選手)を知らない人間が見ると

 

「お前誰やねん?」でしかないから、感じ入ることがない

 

スター選手であるのは村内(その空間内)あるいは「知っている者にとって」であり

 

存外からすると「無風」だ

 

そーゆー者たちにとってはもしかすると、華麗な技の応酬にこそ「魅せられる」余地があるかもしれない?

 

あるいはまんまとスター選手の魅力(人間性、キャラクター)に魅せられてその世界に取り込まれるかもしれない

 

 

 

 

 

48系はまさにWCWプロレス団体と全く同じで

 

スター選手(ネームド:キャラ)のムーヴを魅せて商売している

 

しかもかつては秋元Pなど黒幕たちが積極的に脚本を書いてストーリー紬にも手を貸していたほどで

 

あの日のりりぽんが最もわかりやすく

 

NMB48は「ソロ曲ゲット率」が高いグループでもありました

 

 

ゆえにダンスが下手だろうが口をパクパクさせていようが何の問題もない

 

技術云々度外視はWCW式だから

 

初選抜入りを果たした「ポンコツ」を自称し自虐ネタにもしている和田海佑はお世辞にもダンスがお上手とは言えないだろうが何の問題もない

 

誰もそんなところ見ちゃいないのだから

 

劇場公演でのちょこまかした小賢しい踊りよりも

 

大喜利一発、麻雀哲学ヒップホップドォォン!!

 

100億万円以上の値打ちになる!

 

いかに色濃い「ネームド:キャラ」になれるか

 

脚本の中にいて、いかにいい役に付くことができるスター選手になれるか

 

その一点が最も何よりも大切

 

 

 

くわえて48系には「おなじみの場(空間)」という概念(要素)まである

 

これをたとえて言うなら「こち亀」がわかりやすい

 

「派出所」というおなじみの場

 

あの場自体が読書を引き付けるし和ませもする

 

 

 

 

あの派出所でなければダメ

 

例えば7月8月くらいになると「夏だビーチだバカンスだ!」と外の世界へ飛び出す回が増えて、派出所が出てこない

 

すると読者は心なしか寂しさを覚える

 

そして派出所の回になると、安心して、楽し気が増し増して堪能する

 

両さん、中川麗子、部長と愉快な仲間たちと

 

「派出所」というおなじみの場

 

これらが合わさることで、あとずっと無限大に継続していける魔法が掛かる

 

 

 

私で云うとアメリカのホームドラマ「フルハウス」「アリーMYラブ」とか

 

愉快なタナー家と、あのサンフランシスコの家(の中)

 

ネームド:キャラたちと、おなじみの場

 

ジョンケイジ、リチャード、アリーと愉快な法律事務所の仲間たちと

 

事務所、法廷、バーというおなじみの場

 

 

48系は「劇場(シアター)」というおなじみの場がある

 

コレは他に例を見ない、世界的に見ても珍しい「おなじみの場」であり48系の武器でもある

 

加えてNMB48には「YNN」とか「夏のキャンプ」とか「年末24時間」とか

 

「おなじみの空間」があり、ネームド:キャラと結びついて遊ぶ

 

 

 

 

 

これと、塩月希依音と何の関係があるのだって…

 

ネームド:スター選手の色が濃ければ濃いほど、キャラが完成されていればいるほど、スター性の輝きが増していればいるほどに

 

そのメンバーさんが卒業していなくなることの「欠け感」は比例して大きくなる

 

 

 

 

考えてごらん?

 

とっくの昔に連載は終わっていますが「こち亀」で

 

麗子が

「ここで(連載途中で)やめまーす」

「卒業しまーす」

「それではみなさん、さよなら~」

 

って、いなくなってごらんなさい?

 

スター選手、ネームド:キャラがいなくなることの欠け感

 

おなじみの場「派出所」の麗子の姿はもうない…

 

彼女のファンであろうとなかろうと、作品そのものを愛してやまない者たちからすれば寂しさは一入

 

逆に?

 

ほしとうでん…みたいなキャラクターがいたかと思いますが

 

「お前誰やねん?」みたいな者がフェードアウトして登場しなくなっても、別段、寂しさを感じることは無いだろう(スター選手麗子がいなくなるのと比較して)

 

ほしとうでんのファンは、そりゃあ寂しいだろうけど、それ以外の者たちからすると「そういえばいなくなったよね~」「だれそれ?」程度でしかないだろう

 

スター選手と雑魚との相違

 

 

48系で、下がることはあっても上がることは決してないグループの構造が持つ性質がよく表れています

 

逆に?

 

技量(も)重視してやってきた「ハロプロ」が

 

見事に再浮上して、再逆転して、上に再度上がることに成功した出来事は

 

ハロプロならではの出来事で

 

確かに「流行負け」したことによって落ち目となってどん底へと転落しはしたが

 

それはあくまで「流行」によるものであって

 

技量の部分を大事にし続けて鍛えこんできたハロプロ系が

 

48系がブームの終わりとともに落下するのに伴って、再度スポットライトが当たり再浮上するのはごく自然であり必然でもあったということだ

 

これは裏を返せば?

 

それくらい、48系にとってはネームド:スター選手の卒業という出来事は、グループ全体を上下に揺さぶる影響力を持っているということでもあり、そーゆー存在のメンバーさんが「人生の岐路」に立つ頃になると、周り(我々ファンたち)は『果たしてどうするのだろう…』と気が気でなくなるのも無理はない

 

彼女のファンではなくても(こち亀:麗子のファンではなくても)彼女がいなくなってしまうことでの寂しさ、作品全体の雰囲気の「トーンダウン」を危惧する、恐ろしく思うことに依拠する感情

 

なんばのハルクホーガンこと超人ケイトがどうなっていくのか…

 

 

 

 

 

最後に一つ

 

あーやんの卒業発表にまつわるエピソード

 

 

 

当時はコロナ渦で、卒業発表は「showroom」か「冠公演」でするのが常だった

 

あーやんが、満を持して、いよいよ念願だった冠公演が決まったとき

 

ネット上のコメンテイターたちはこぞって

「あーやん卒業か~」

「冠公演で卒業発表有るぞ」

「お前ら覚悟しておけ(心の準備をしておけ)」

 

こーゆーコメントで溢れ返った

 

すると、そんな中で

「いやいやいや」

「あーやんはまだまだ卒業しません」

「モバメ読んでないの?」

「あーやんのモバメを読んでいればまだまだ続ける気満々なのがちゃんとわかる」

「モバメも取っていないような情弱・無銭のゴミは黙ってろ」

 

こーゆー、「あーやんはまだまだ続けます」派の彼女のヲタらしき者たちのコメントも、カウンター的に溢れ返っていた

 

 

さあそして、冠公演

 

からの

 

「私、山本彩加は」

 

からの

 

私の勝手な想像では

 

コメント欄では

「やめないやめないイキってたヤツざまあああ」

 

みたいな?

 

「やめません言ってたヤツ息してる?」

 

みたいな?

 

こーゆーいじり返しが溢れ出てくると思いきや

 

意外とそんなことはなくて

 

むしろ

 

「アイツは純粋なあーやんヲタだったんだ」

「アイツだって苦しいんだ」

「そっとしといてやろうぜ」

 

みたいな

 

 

野ションしてる所に居合わせちゃって

 

「ここに野ションしてるヤツいるぞ~」

 

って言いふらして晒すのではなく

 

むしろ

 

「うんうん、わかるよわかるよ」

「したくなる時だってあるよね」

「だって人間だもの」

 

って、優しく気遣って、見て見ぬふりして素通りする

 

みたいな?

 

 

野ションと、あーやんの卒業発表を一緒にするな!

 

みたいな…