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  チェック表(過去問)

 

 

 

 

 

張学良

張作霖の長男

字は漢卿(ハンチン)

東三省講武学堂の一期生

初めは人を救う医者になりたいと思っていたが、結局は人を殺す軍人になってしまったと後に述べている

 

  • 陸軍一級上将は、蔣介石に次ぐ中国の最高軍事指導者の地位
  • 満洲の奉天軍閥、父・作霖と共に大日本帝国に協力的であった
  • アヘン中毒の治療もかねてヨーロッパを歴訪し、イタリアのムッソリーニやドイツのゲーリングに面会し、ファシズムの影響を受け、中国も強い指導者が必要と思うようになった。
  • 張学良と楊虎城は西安事件を起こして蔣介石を拘束し、第二次国共合作を認めさせた。12月14日、西北剿匪総司令部を解消し、自ら「抗日聯軍西北軍事委員会」主任を名乗る。
  • 50年以上も軟禁され続け、蔣の死後、次第に行動の自由が許されるようになる。

 

 

 

 

とよもす(響もす

声や音をひびかせる

鳴りひびかせる

 

 

 

 

馬占山

字は秀芳

馬賊時代の経験を生かした巧みなゲリラ戦術をもって知られ、日本軍将兵から「東洋のナポレオン」の異名をとった

 

  • 張作霖の側近だった呉俊陞に見出され1911年に連隊長、1925年には旅団長となった
  • 満洲事変が勃発すると張学良によって黒竜江省政府主席代理に任命され、嫩江(のんこう)にかかる鉄橋を破壊し、関東軍および関東軍に協力した張海鵬の侵攻をチチハルで食い止めようとした
  • ハルビン在住の張景恵が関東軍の後押しのもと、黒竜江省の地に新政権を樹立することを宣言した。2万の大軍を擁し、声望高かった馬占山は最後まで抵抗しつづけた
  • ゲリラ戦を展開したものの軍事的な劣勢を跳ね返すことはできず、翌1933年にはソ連へと脱出した。その後、ヨーロッパ経由で再び中国に入国し、蔣介石に徹底的な抗戦を要求したが拒絶され、軍事委員会委員に棚上げされて、結局、天津の租界に寓居する。
  • 張学良・楊虎城によって西安事変が起きると張学良らを支持、1937年の盧溝橋事件ののちは東北挺進軍総司令に任命され、山西省において八路軍と協力しながら抗日闘争を続行した。

 

 

 

馬占山のタバコ

 

 

 

 

臥薪嘗胆

復讐を成功するために苦労に耐えるという意味

紀元前5世紀のの国家間の戦争に由来する

明治時代の日本において、三国干渉が発生した時に、ロシア帝国に復讐するために耐えようという機運を表すスローガンとして広く使われた。

 

 

 

 

溥儀(プーイー、ふぎ)

清の第12代にして最後の皇帝(ラストエンペラー)

宣統帝

のちに「溥儀は満洲国皇帝(康徳帝)」

正妻の婉容(ワンロン)、側室の文繡(ブンタン)と結婚

のちに側室の文繡から「離婚訴訟」を起こされる

『我が半生』は、唯一の自伝

 

辛亥革命後の呼称としては、廃帝と呼ばれる一方、旧清朝の立場からは遜帝(「遜」は「ゆずる」の意)とも呼ばれた。

末代皇帝(末帝)と呼ばれる場合もある。

また、唯一火葬された皇帝のため「火龍(龍は皇帝を指す)」とも呼ばれる

 

  • 溥儀は、中国国内における洪水や飢饉、さらには生活困窮者に対して常に同情を寄せ、これらの支援のために多くの義捐金を送ったものの、その全ては自らの命令でさらに匿名で行っていた
  • 関東大震災においては、ジョンストンから震災の発生を伝えられると、即座に日本に対する義捐金を送ることを表明し、併せて紫禁城内にある膨大な宝石などを送り、大日本帝国側で換金し義捐金とするよう芳沢謙吉公使に伝えた。「溥儀は何の政治的な動機を持たず、純粋に同情の気持ちを持って行った」とジョンストンは自書の中で回想している

 

 

 

 

 

 

 

石原莞爾

日本の陸軍軍人

天才と称された「軍事思想家」

帝国陸軍の異端児とも

 

『世界最終戦論』で知られ、関東軍で板垣征四郎らとともに柳条湖事件や満洲事変を起こした首謀者

二・二六事件では反乱軍の鎮圧に貢献したが、後に東條英機との対立から予備役に追いやられる

昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している

 

関東軍作戦主任参謀として満洲に赴任し、自身の最終戦争論を基にして、関東軍による満蒙領有計画を立案する

満洲事変を起こし 、23万の張学良軍を相手に、1万数千の関東軍で満洲を占領した

 

 

 

 

 

永田鉄山

日本の陸軍軍人

統制派の中心人物

 

陸軍省軍務局長時に、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に執務室で殺害された(相沢事件)

 

  → 皇道派の青年将校たちは、後に二・二六事件を起こすに至る

 

企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」とも追想していた