頭頂部から房の垂れ下がった、つばのない円筒形の帽子。
色は赤やえんじ色であることが多い。
「フェズ」という名前はモロッコの都市フェズにちなむ。
日本ではトルコ帽と呼ばれることが多く、またエジプトなどではタルブーシュと呼ばれる。
19世紀から20世紀初頭にかけてオスマン帝国とその周辺地域で流行した。
もともとは現在のモロッコの辺りで用いられていた帽子だったが、オスマン帝国がマフムト2世の近代化改革によって文官・武官共に洋装を取り入れることになった際に、従来ムスリム(イスラム教徒)が頭に巻いていたターバンに代わるものとして導入された。このような経緯からオスマン帝国においてフェズは近代化のシンボル的存在として親しまれ、ムスリムだけではなくキリスト教徒やユダヤ教徒の間でもフェズを着用することが多くなった。19世紀末ごろのオスマン帝国では、フェズにフロックコートという洋風のスタイルは「ハイカラさん」の代名詞でもあった。
1797年から1802年までイタリア北部に存在したフランスの衛星国
1802年にイタリア共和国と改称し、1805年にイタリア王国へ移行した
共和国の首都はミラノ
- ナポレオン・ボナパルトはイタリア遠征によって占領した北イタリアにチスパダーナ共和国とトランスパダーナ共和国を建国した。
- 両共和国は1797年6月29日に統合され、チザルピーナ共和国へ移行した。
- 共和国はカンポ・フォルミオ条約によってオーストリア(ハプスブルク家)に承認された。
- 1799年にはオーストリア軍によって全土が占領されるが、1800年のマレンゴの戦いの後に再建された。
- 1802年1月26日、チザルピーナ共和国はナポレオンを大統領とし、イタリア共和国と改称した。
- 1805年、フランス第一帝政の成立に伴い、ナポレオンを国王とするイタリア王国へ移行する。
- 1814年、ナポレオンの退位とともに、この国家は消滅した
1876年~
マルハレータ・ヘールトロイダ・ゼレ
フランスのパリを中心に活躍したオランダのダンサー、ストリッパー
舞台では「レディー・マクラウド」と名乗っていた
マタ・ハリは元はダンサーとしての芸名だったが、第一次世界大戦中にスパイ容疑でフランス軍に捕らえられ、有罪判決を受けて処刑されたことで、後世に女スパイの代名詞的存在となった
中世の西ヨーロッパで着られたゆるやかなチュニック型ワンピースの一種。
ダルマティカなどビザンツ風の裾長のチュニックの流れを引いており、十字軍遠征によって西欧社会にもたらされた衣服と考えられている。
薄い絹などで作られ、11世紀から12世紀にかけてのロマネスク様式を優美に飾った。
ブリオーという言葉がはじめて登場するのは、11世紀の武勲詩『ローランの歌』の作中である。
女子のブリオーは、漏斗のように大きく広がった袖口の床丈のワンピースドレスであった。細かいプリーツがつけられ、腰骨のあたりに長いベルトを締めて着ていた。腰から胸下にかけて背後から紐締めして細腰を強調していた。12世紀の中ごろには、広幅の帯を巻いてさらに腰の細さを強調する着つけも登場している。下着には白い亜麻布でできたシェーンズという長袖の短いチュニック型の衣服を着ており、袖口と襟もとに刺繍を施していた
男子のブリオーについては、当時の昔気質の人々や聖職者には嫌われたらしい記述が残る。ノルマンディーの聖職者オルドリク・ヴィタルは、若い男たちが女のように柔弱になると、髪を伸ばして鏝を当て裾長の服を着て手を覆う長い袖の服を着る流行を嘆いた。ノルウェー王スヴェレ・シグルツソンも、臣下の衣服が女性の様に柔弱であるのを嫌っている。
1510年~
イタリアのルネサンス期の画家。
師匠のティツィアーノ、そしてヴェロネーゼとともにルネサンス期のヴェネツィア派を代表する画家。
ティツィアーノの色彩とミケランジェロのマニエリスムの形体を結びつけ、情熱的な宗教画を描いた。
ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿(総督宮殿)や当時ヴェネツィアにいくつかあったスクオーラ(信徒会、同心会)の会館などのために多くの作品を残している。
ティントレットの絵画は、斬新で大胆な構図と、ドラマティックな表現に特色があり、『聖パウロの改心』、『ガリラヤ湖のキリスト』のような、聖書のエピソードを壮大なドラマのシーンのように描いた作品は、次世紀のバロック絵画を先取りするものといえよう。
最後の晩餐
『天国』
奴隷を解放する聖マルコ
弟子の足を洗うキリスト
スザンナと長老たち
カナの婚礼
サラセン人を救う聖マルコ
岩から水を湧き出させるモーセ
マナの収集
三美神とメルクリウス
ヴィーナスとアリアドネとバッカス
『磔刑』