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この今さら感はどこか懐かしくもある…冬になると訪れる既視感は季節のせいなんかじゃない

 

いつだったか…自然ナテラ初登場してからの「自然ビショップ」が大暴れして、せっかくその他のクラスたちの自然軸がバランスよく楽しめるというのにイリス1人がバカみたいに暴れちゃってて台無しにされていたあの時代の、だいぶ遅れてナーフされた「黄金都市」「アニエス」を彷彿とさせる「今さら感」

 

私的にも史上稀に見るナーフ必至を叫び続けて多くの記事を書くこととなりました

 

これは別に、狂気に満ちたキチガイが好き勝手に喚き散らかしているのではなくて、やっぱりそうなんだよね…ついにまんまとナーフされたように、まんまとやっぱりそうなんだよ…結局のところ

 

つまり、あのカード内容でいいわけがないしあのカード内容が存在し続けていていいわけがないしあのカード内容がいろいろなゲーム内の良心をダメにしているわけで、もっと早くに手を打てよ…と

 

例えばすごく面白いのが?

 

ベイリオンがナーフされましたが、あれは言うほど強かったのか?

 

確かに大流行して「撤退撤退撤退まみれ」になったのも事実

 

しかし…いくら確定サーチ込みとはいえ運ゲーが付きまとったデッキで且つ対処も容易かったある種のリノ虫を彷彿とさせる疾走連打OTK!系でしかなかった

 

さて…

 

運営陣などナーフを実行する者達は、カードの強さでナーフを決めることはない

 

ガンダゴウザがいい例であるように、ゲームをプレイしている者達からすれば「なんだよそれ…」って腹立たしいくらいの過剰なストレスを受けるカードを見知っても、ナーフ者は知らん顔である

 

あくまで「使用率

 

良くも悪くも使用率!

 

ナーフの実行を決定づける要因は常にいつだって「使用率のみ」

 

 

そしてここにきて、現代バースならではのさらに面白い現象が体験できましたね?

 

ナーフ者たちからすれば

「強いカードであるならば多くのユーザーが使うに決まっている」

「すると自然と使用率が高まる」「そこで我々の出番となる!」

「しかしそうでならないのなら(使用率が高くないのであれば)、我々の出る幕ではない」

  • 強すぎるヤベェカードであるならば=使用率はぐんと高まるであろう
  • 高くはないなら=言うて強くはない → 適性の範疇だ!

と、こういう理屈によるナーフの仕方を常に心がけてきた

 

ところが…だ

 

今となってはどのカードもアレもコレもソレもどれもこれもが「やり過ぎにもほどがあるヤベェ狂強凶カードたち」ばかりなのである

 

これらで「人狼ゲーム」をやろうものなら狂人だらけで村人が不利すぎてゲームにならへん、、、、ってレベルで「ぶっ壊れカード祭り」なのである

 

すると何が起こるのか?

  • 強カードたちの中で、使用率に差がどうしたって出てしまう
  • 強カードたちで上手くバランスをとる…ということがムズカシイ

とくにコストが軽ければ軽い程、扱い難易度が容易ければ容易い程、カード・デッキの生成コストが安ければ安い程、同じ強カードであってもそこには天と地の差の使用率が生まれてくる

 

1つ前のリナセント期の「ヤテラン率いる自然ビショップ」「ラティカエルフ」が強くて流行っていてその陰では、後にナーフされる「ベイリオン一式まるまる」はすでにいたわけで

 

つまり、あの段階で「ベイリオン(とドラゴンのヴァイディ)」のナーフにすら言及できた先見の明を持つ者は少なかったであろう…トレランスは1人バカみたいに目立っていたから指摘すること自体は容易かったが、トレランスもトレランスで「まるまる一式」がラティカ・ヤテラン大暴れ期に既にいたわけだ…。

 

つまり、ラティカ・ヤテランをナーフする場面で、ついでにベイリオン(とヴァイディ)とトレランスもナーフせェ…ってことなんだよね

 

それらは、使用率は決して高くはなかったであろうが、ナーフされて然るべき強カード候補生たち(ラティカなどと同期)なのであってそれらの存在意義と価値と意味は全く同じである

 

「目にするクラスとカードがまるで違うものだからそれでいいじゃん?」と口をとんがらせて言いたそうな『流動性うんぬん』とは間抜けな言い方であって、ラティカたちと同期の強カードたちが台頭して同じことを繰り返すだけ(強カードデッキを使うだけで共通して言える「疾走超強打!」)にしかならないという読みを、お前ら作り手がしなくちゃならなかった…