新年度になると、先生の異動があり、校長先生が変わることがあります。

その時が一番気を付けておく時です。

校長先生で学校の雰囲気はわかります。ガラッと。

 

そこで、小学校の頃は毎年校長先生にご挨拶に行っていました。

支援学級の保護者で行ける人がいたら、なるべく多くの人で行きました。

4月に「今年一年もよろしくお願いします」と伝えるのと

3月末に「一年間ありがとうございました、来年も特別支援に理解のある先生を交流学級の担任にお願いします」

 

そのおかげかどうかは、わかりませんが、毎年良い先生に巡り会えました。

 

 

ある年、校長先生が変わった時、

特別支援の考え方で校長先生と合わずに困ったことがありました。

 

PTAの歓送迎会で、校長先生にちょっとご挨拶した際に、

「この学校の特別支援学級には疑問がある」と言われたのです。

特別支援学級のまとまりがない、

朝の会と帰りの会は支援学級の子でしたほうがいいのではとか、

色々と言われました。

 

 

!!!!!!!!!!!!

特別警報が鳴りましたね~

頭の中で

 

 

そこで支援学級の保護者同士で話し合ったり、

支援学級の担任の先生とお話を重ねていた時の連絡帳です。

 

 

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連絡帳より


6月24日
(先生)
昨日校長と私たち担任2人とで話をしました。
「交流中心」という言葉に「交流が中心で支援学級はどうでもよいのか」という疑問を抱いておられたそうで、私たち2人で今のこの学校の形が子ども達にとっていい形であること、交流学級で学ぶこと、友達と自然に関わる大切さ、また、支援学級で学ぶこと、どちらも大切な役割があり、両軸でやっていかなくてはならないことなどを話ました。
「自立」ということも、自分の力を伸ばして自分でできることを増やしていくこと、わからないときに聞くことができる、誰かを頼って生きていけることも「自立」だということをわかっていただきました。
歓送迎会の時に●●さん(わたし)と話された「自立」について、校長はずっとひっかかり気にしておられたようでした。
●●さんからいただいた資料を何度も読ませていただきました。
学ばせていただきました。ありがとうございます。
校長は今回の私たちとの話し合いで納得され、安心されたようです。
「交流中心」という言葉がいかにも「交流だけ」をしているようにとられるのはとても心外です。
支援学級でも日々一生懸命に子どもたちも私たちも学習に取り組んでいることを知っていただきたいです。
けれど、そんな風に思っている人が案外多いのでしょうか。
両軸でいきましょう、と思います。
ですから、校長に対しては、もう大丈夫と思われます。


6月27日
(先生)
お手紙ありがとうございました。
校長先生の中には、「交流を減らす」という考えはなさそうです。
減らしても子どもたちに、決してプラスにはなりません。
「自立」のために交流がとても大事なのです。と思います。
 

 

 

 

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校長先生のお考えがあって、

保護者の考えがあって、

両方がどう考えているかを出し合って、

どちらが正解とかはないのですが、

じゃあこういう方向でいきましょうかと話し合えたことが良かったです。

 

 

 

 

ちなみに私が渡した資料とは、海津敦子さんの本のコピーです。

その一部をご紹介します。

「障がいのある子が就職して一番先に求められるのは困った時に助けてと言える力。

そのためには、人にたくさん「助けて」といったり、助けられたりする経験が必要。

その練習のために交流学級に長くいさせてもらっているんです」

とお伝えできた根拠の部分です。

 

 

先生という職業からの立場だと、

この子が大きくなって大人になった時、

どんな力がついていたらいいのか、

どんな人になって欲しいから、今、何が必要か、

という視点(想像)が持ちにくいようです。

小学校のその時点の事(自分が関わっている時期だけ)でいいかもしれませんが、

親は一生の付き合いですから、長期的に子どもの成長について考えているのです。

 

 

 

 

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自立とは、一人で生きていけるということを意味するものではない。
自立するとは、助けてもらっていることが多いか、少ないかではなく、だれもが助けてもらっているのですから、助けてもらうことは特別に変わったことではない。
自立とは障がいがあってもなくても、自分がどうしたいか、何をしたいか、自分を愛し、自分の意思で人生を決め、選択できるようになり、そのために助けが必要なときには、人を頼り、助けてもらい、自分らしく、よりよく生きていくこと。
困った時に、自分自身の意思で、人の手や知恵を上手に借りられるようになれば、ずっと生きやすくなる(障がいのあり、なしに関係なく)
 

 


障がいのある子どもが就職して一番先に求められるのは困ったときに「助けて」と言える力です。
困った時に「助けて」と周囲を頼って助けを求めることは、成人になって教えても、なかなか身につくものではない。
人に助けを求めることができるかどうかは、「他人への信頼感」と「自信(自分への信頼感)」に深くかかわっていると感じています。そのカギになるのは、自分の想いを受け入れてもらえた充分な体験があるかないかです。
甘えてもいいんだということを、子どもにわかってもらうのは、とても大切なことです。
甘えさせてもらえ、自分の想いをしっかりと受け入れてもらえた子どもは自分の想いを伝えるのが上手です。
子どもが選んだことを尊重して、いっしょにやってみたり、子どもの気持ちに共感したり、子どもの心に丁寧に耳を傾ける
子どもの想いを丸ごと受け入れて子どもが満たされるように甘えさせてあげることが、子どもとの間に「愛情」と「信頼」という絆を育んでいく唯一の方法。
子どもが望むには、それなりの理由が必ずあるので、私は子どもが望むかぎり、そのリクエストに応えてきました。
自立する力は、人を信じて、人とつながっている心地よさの中でこそ育まれる。
 

 

 

 

障がいのある人の自立を「できることを増やす」とイメージするが、違う。もちろん自分でできるようになったら、より暮らしやすくなるかもしれませんが、その半面、できるようにするためにがんばり続ける時間は、自分が生まれてきたことに自信を失う時間になってしまうかもしれないと危惧しています。障がいのあるなしや、大人こどもに関係なく、できないことばかり目を向けられたら、毎日がちっともたのしくなくなってしまうでしょう。まして、できないことが人よりも多いから障がいがあるといわれる所以なのに、周りが「自立のため、少しでもできることを増やさないといけない」と肩に力をいれていたら、どうすればいいでしょう。私は嫌です。面白くないです。できない自分はいけないのだと思ってしまうかもしれません。自分自身でどうにもできないことのために、自己評価が下がってしまうのなら、ものすごくつらいことです。

 


「自分でできないことがわかれば、どうすればいいのか、他の人に助けてもらうことができるんだよ」
できないことを、できないと認めることは、とても勇気のいることかもしれない。
できないことを受け入れ、支援を受けることを引け目に思わず、胸を張って受けられる人がいたら、その人は自立しているなあと私は思います。
支援をするほうも、されるほうも、気持ちのよい関わりを築けるようにかかわっていくことです。
大切なことは、できることを増やすのではなく、今ある力で楽しくその子らしく過ごせるかです。
できないことを「できない」と認められないのは、「できないことは恥ずかしい」と思う親の心が伝わっているからかもしれません。
 

 

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が、その後ある時

「なんで支援学級の保護者だけ、そういうことを(挨拶に行く)しないといけないんですか?

地域の学校に行くことは当たり前のことなのに」

と言って、挨拶に行くのを拒んだ保護者がいました。

そこは、個人の自由なので、来ても来なくてもよかったのですが、

時々強い拒絶反応を示す方っていますよね。

 

 

ただ学校に行くことは、だれも当たり前ではないし

(子どもが不登校になったりすることもある、病気で行けないこともある。

子どもだけでなく親もなにがあるかわかりませんよね)

せっかく学校に行くなら、子どもが少しでも快適に過ごせるよう

なにかできることがあるなら、親としてやってあげたいという気持ちだけでやっていたのです。

そんな小さな思いやりなんです。