海津敦子さんの本から送られたエールをご紹介です。
私もこのように断言できる保護者になって、
若い保護者に届けたいと思っています。
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「遅れのあるわが子は、自分の人生を邪魔する存在ではない」
社会参加に制約を加えられる子どもたちでもない。
障がいのある子は疎まれるような子ではない。
障がいって、もちろん大変ではあるけれど、
本人にとっても、親にとっても、
同情されることでも、かわいそうなことでも、
悪いことでもないんですよ。
遅れをもって生まれてきただけで、
彼は何一つ悪いことはしていないんです。
今も彼なりの花を咲かせて周囲に見せてくれています。
「なりたくてなった発達に遅れがある子の親ではないけれど、
遅れがある子の親になることが不幸なんていえません。
障がいのある子とともに歩む中で、障がいとは何かと問い続けているうちに、
いつのまにか今まで社会が作りだしてきたつまらない先入観から抜け出すことができるんです。
そして世間の目や人の目をきにしない新しい価値観をもって生まれ変わったように、
親として人として大きく成長していることに気が付くのです。
他人と比較することのない生き方ができるようになり、とても生きやすくなります。
(東海林朝子さん)
親が子どもと向き合い思いをしっかりと聴くためには、
親自身が人生を楽しめる精神的・肉体的ゆとりを持つことが不可欠です。
なぜなら、自分の人生を自分なりに楽しめているからこそ、
相手を思いやる豊かな心を抱けるようになるからです。
心身ともに疲れていると、特に肉親に対して、遠慮がなくなり、
つい自分の疲労感そのままに接してしまうもの。
相手の想いに想像力を働かせることができない。
ゆとりがなければ、子どもの人生は子どもが主役だと考えづらく、
子どもの子が聴こえにくくなるだけです。
自分の人生を充実させてこそ、
子どもが自分の人生で邪魔をする存在ではないことを実感でき、
優しい気持ちが湧き上がってくるのです。
自分が何をしたいか考え、日常の小さな夢をかなえる。
変化を受け入れるというのは、
人間にとってとても難しいテーマで、個人差が大きい。
しかしその一方で、人間には変化を受け入れる力もあるのだといいます。
子どものありのままを理解し、受け入れるためには、
すでに抱いていたイメージを修正するという作業が必要です。
考え方を切り替えていくことは、脳の最も高度な働きのひとつで、
多大なエネルギーももちいなければならず、不安も伴います。
でも、ここが人間のすばらしさで、
そうしたほうが結果的に良くなるという見通しをもてると、
努力してできてしまうのです。
先の見通しが、目の前の不安を乗り越えさせてくれるのです。
でも、このことはひとりで簡単にできることではありません。
周囲のサポートが大切になります。
変化を受け入れて良い方向にきたことを確認できなければなりません。
意味のある苦しさだとわかると、投げ出さずに乗り越えることが、人間にはできるのです。
親が落ち込んでしまうのは、しょうがないこと。
ひとりひとりが大事にされる教育をされていたり、
個人が尊重される社会にいるならば、何の抵抗もなく「遅れてもいい」と思えるのでしょうね。
だからショックを受けてもしょうがないのです。
ただ、できるだけ早く気持ちを立て直すことが大切。
そのためには、親自身が、遅れのある子どもをもっていても
居心地がいい居場所を探すことがとても重要になってきます。
親が不幸をしょいこんでしまったように感じたままだと、子どもまで巻き込んで、
本来のその子らしさを失った生活になってしまうのです。
(岩崎貞子さん)
障がいのある子の親になった自分の人生を受け入れる。
それは通常の子育てと同じように親自身の人生も楽しめる支援があってこそです。
障がいを受容することが、
「より幸せに、より楽しく、人生を暮らしていく応援を得ること」
「希望を見出すこと」につながるならば、
障がいを受容する苦しみはずっと和らいでいきます。
障がいのある子どもの親は、
障がいを携えていることは何も悪いことではないと考え、胸を張って、
わが子の障がいについてどういった支援や配慮が必要なのかの理解を求め、
そして、一緒に考えてもらうことです。
それが、子どもが人生を堂々と生きていくうえでの大きな後押しになります。
「しょうがないよ。そのままを受け入れてあげよう。
昨日までのアメリーと、今日告知を受けてからのアメリーは何も変わっていないんだから。
変わったのは、ぼくたちが遅れがあることを知ったというだけで、
ぼくたちがこれまで愛してきた娘のままだよ。
ぼくたちの、これまでの育て方を少しアメリーの助けになる育て方に変えればいいだけのこと。
何を助けてあげればいいのかが今日わかったんだ、良かったよ。
これからは、これからなりの楽しみがきっとあるんだから大丈夫。」
↑(わたし)ロイとミレール夫妻のお話が一番好きです。
夫のロイのような考え方を自分でもできるように
なれたらなあ~と思ったものです。
こういう言い方もできるんだなという「リフレーミング」ですね。
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私の子どもが中学生の頃「本人告知」をしました。
それは、構えていたのではなく、自然な流れでなりました。
(どう伝えるか、などは学習会等で聞いていました)
療育の先生から当事者さんに「障がいとは」という話をするときに、
こう説明するよ、と教えてもらった後でした。(いつかまたその時のことをゆっくりと)
「障がいってWHOの定義でね、
支援のいる人、助けのいる人を障がい者っていうんだよ。
だから、妊婦さんも、小さな子どもも、
高齢者も、怪我をして助けがいる人も障がい者。
だって助けがいるもんね。
タバコをやめれな~いって言って治療している人も障がい者。
薬物やめられない~って人も障がい者なの。
こう説明するかな~」
そう、障がいと口にした途端、
モーゼの「十戒」のように海が割れるくらいのイメージをもってしまう。
なんか別物に感じてしまう。さーーーっと距離を感じるといいますか。
だから、先生の教えてくれた考え方はとっても気に入りました。
そうなら、私だって障がい者♪
自分で髪を切れないから、美容室で切ってもらっているし、
洋服も作れないからお店で買ってる、
家電製品はもちろん作ることはできないから、出来たものを使わせてもらってる、
お惣菜も買ってきて食べたりしているし。
助けてもらいながら、生活してます。
「障がい」のイメージ、
親になったからこそ、変えることができたのかもです。
ちょっとずつですが。