こんにちは。
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先日お話ししておりました公開テストの国語の問題文を昨日確認しました。( 遅っっタラー )

太宰治「パンドラの匣」でしたね、、滝汗

言葉づかいが所々古く、漢字も特殊な使い方で「〇〇をしよう→〇〇を仕様」「回復→恢復」なんて書いてあったり、その他難しそうな言葉のオンパレード。それだけでもハードルが上がってるのに、登場人物があだ名で表記されているのでさらに混乱を生じさせるという…ゲロー

[登場人物]
僕 = ひばり、かっぽれ、固パン = 須川さん、越後獅子、清盛、竹さん、沈黙女史。

僕 ( と竹さん? ) 以外は全てあだ名。
また、本名と綽名 ( あだな ) の説明が、出題文の手前のパートに本来はあるのですが、問題文に含まれるワケモナク、それについての補記もなくポーン
上記のように「僕」と「ひばり」が同一人物であることなどは、出題文を一読しただけでは分かりません。※設問で問われるからこそ消去法で分かるけど
子どもたちは混乱の渦に飲み込まれまくった台風ことでしょう滝汗ガーン。。


言葉も、
「敢然と」
「甚だ」
「一視同仁」
「色男」
※こういう言葉を小学生って意外と知らないですよね滝汗
「智仁勇」
「自重」
「口説」
「臣民」
「やきもき」
「左官」
「にべもなく」

表現では、
「かっぽれは、少し凄くなった」
「思案にくれていたというような按配なのだ」
「この健康道場第一等の色男を以って任じていたのに」
怒鳴った」ではなく「呶鳴った」
※変換出てきません...ゲロー
「芝居の作用だ」
「義を見てざれば勇なきなり」

などなどなどなど....
また、後半のかっぽれのセリフがクドイのなんのって…笑 ※そういう場面なので仕方ないんですけどね笑
多くにルビは振ってあるので読めるのは読めます。
が、意味を理解しようと時間をかけてしまうと、おそらく引っかかりどころが多すぎて時間が足りなくなったり、最後まで読む気を無くしてしまったりする仕掛けとなっている、、、つまりは、

「完璧に理解しようとしなかった者」が勝つ

そんな仕様だったのかと思います。
もちろん、太宰が生きた時代の作品を読み漁っていて、現代文と同じように読めるような優秀なお子さまは別です。そうでない娘たんガーンチーンのような子どもたちは、理解しようとするのか見切りをつけるのかの判断が難しく理解し切ろうと努めること自体が敵の術中にハマってしまうという鬼仕様、その極みのような回だったのかな、と。

個人的には、そういうテクニカルに偏った物語の捉え方はあまり好みではありません。本来、物語を純粋に愉しむためにはその文章に触れる時期の見極めが大事であると考えています。これは子どもの語彙の充実がその本を読むにあたり適正であるかどうか。そう言ったことも含みます。

しかし、綺麗事で中学受験を乗り切れるかというとそうではなく、浜イルカの講師が時々言っている、「意味なんか分からなくても解ける」理論、テクニカルに処理をしていかねばならぬ現実もあります。また、強制的に分からない言葉に触れてから後追いで理解していくプロセスも重要です。
そして、( 設問の内容は細かく見てはいないものの ) 志望校の過去の出題に「太宰治」の文章が使われていたことがある、という事実 滝汗。。本番まであと1年半だぜ...。。

本来、出題の範囲となっている「かっぽれ」と「固パン」のやりとりのくだりはとても滑稽で、言葉を理解していたり、このような文体に慣れてさえいれば、結核患者がひとところに集められた中で起こる騒動を太宰の筆力による臨場感満載の情景描写で感じ取ることが出来る素ん晴らしい場面なのです。
そういった物語を感じ取ることが出来るのに適した時期に初めて触れるのではなく、このような形で接点を持つのが果たして幸せなことなのか?
そう、いつも考えてしまうのですなぁ。。真顔もやもや

ここで私たち大人が忘れてはならないのは、そういったジレンマを抱えながら子どもに接することが重要である、ということ。
中学受験の弊害と言いますか、こういう作業を繰り返して国語がキライにならない様、といいますか、んー、物語をキライにならないようにアンテナの感度を上げ、子どもにあわせたフォローをせにゃあならぬなと改めて思った次第です。

子どもにとっては本来はキャパオーバータラーかもしれない。でも、スポンジのように驚くほど吸収してくれることもあるポーン
そのどちらにおいても当たり前だと思わぬよう、小さな戦士照れたちにに敬意を持って接せねばならぬ。

そんなことを思った公開テストだったのでしたウインク

んで、結局のところ、やっぱり実力の見極めが難しい回であった、という結論に至ったのでありましたとさ。ちーん 滝汗


でわでわでわ(๑´ヮ`๑)!