執着する心
我執とは、字の如く我に執着することです。
物の捉え方や考え方まで、自分を中心として捉えていこうとします。
そこに、我見という偏った物の見方・考え方も起こってくるようになります。
「中庸(ちゅうよう)」という言葉がありますが、この意味はかたよらず常に変わらないということで、過大と過小の両極端に偏らず両方の正しい中間を知見によって定めることでもあります。
この中庸という考え方・捉え方が、出来にくくなってしまうのです。
その為に周囲との協調性がなくなり、信頼も薄らいでいくようになります。
「自分が・自分が」という我が強くなりますと、自己顕示欲
やプライド意識が非常に強くなっていきます。
そこに、人に対する妬み・嫉妬といった心も起こり、人を敬うとか思いやる気持ちには中々なれないものです。
例えば、スポーツでも上達しようと思えば、必ずその専門に携わる人から習っていくものです。
勝手我流では中々上達しません。
やはり、その道には道のスペシャリスト・専門家がいるもので、その人に指導してもらい次第に身に付けていくものです。
仏さまの教えに
「かうであらんと思ひばかりて、仏説によらず自分ざとりをするなり。」
「ほしいままに心おごりて、知らざる事をしりたげにたかぶるなり。」
とあります。
このように、自分考えで物事をやっていこうとすることが、物事が上手くいかない原因にもなるようですので、まずは自分考えを捨てる習慣を身に付けていきたいものですね。