人として生きる上で大切なこと 「こころのものさし」






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生き方を考える

 

            御 教 歌

 

    わりのよい ことをするのを とくすると

 

       おもふはそれが 損のたねなり

 

 

 楽をして得する考えは損の種まきとなることを仰せの御教歌です。

 

同じ種を蒔くのであれば、善い種を蒔きたいものです。

 

ところが、人の心の中に自分が楽をして利欲をむさぼろうとする心も存在しているのも確かなことです。

 

俗に言う「漁夫の利」で、人と人の狭間を縫って、骨を折らず楽々と利益をむさぼろうとする生き方です。

 

そのような「わりのよい」生き方をしていきますと、心に悪い種を下している事となり、やがては匂いのきつい、人からも嫌がられる芽が出てくるようになります。

 

御指南に


「まきたる善因(ぜんいん)のはえぬといひ、まける悪因(あくいん)もはなるとおもへるが物の道理もしらぬどちが、無理にしひて好むままに物をいひて他の難儀をかへりみず。」  

「善いことをしても悪いことをしても、その報いなどくる筈がないと思い込み、他人の難儀を顧みず、したい放題していると必ず因果の報いが自分に返ってくるのである。」
 
このようにありますから、「わりのよい」生き方だけはしないよう心掛けていきたいものです。

 

更に

 
「心すなほなる人あれば、眼前の境界にては損も多き様なれど、その徳つもれば必ず顕はる。若しこの理なくば雲ありて雨ふらず、風ふきて物を散らさず、火を握りてあつからぬ世にもなるべし。いまだしからず。」 

「心を素直・正直に、真っ直ぐに生きていけば、目先の事では損が多いように見えるが、徳が積もれば必ず顕われてくるものである。
もしこの道理がなければ、雲があって雨が降らず、風が吹いても物を散らさず、火を握っても熱くない世の中になっていくのだろうが、そのようなことが無いところを見ると、実に因果は厳然として存在するのである。」

 

このようにお示しで、素直正直に生きていった方がどれだけ得なことか分かりません。

 

「俄(にわか)もうけには俄のかげがさし、地道(じみち)の事には地道のかげがさす。されば、時のいたるをまちて・・・云々。」

 

この教えを日々の生活において「手鏡」にしていきたいものです。

 

許す心

 

           御 教 歌

 

    何故の うらみやはなの よるの間に

 

      あめにたたかれ 風におとされ

 

 

 どんな綺麗な花でも強い雨風に打たれると散るように、何時までも妬み恨みの心を切り替えられないようだと輝き失せた人生となってしまうことを仰せの御教歌です。

 

お互い生きていけば、色んな人と交わり接していくものです。

 

もちろん、素晴らしい人との出会いもあります。

 

この人と出会って自分の人生が大きく変わった!ということは、よくあるお話です。


けれども、残念ながらそのような素晴らしい人との出会いだけではないのが、お互いの人生で、中にはとんでもない人がいたりするものです。
 
・人を信用させといて、平気で裏切る・・・ 

・自分の欲のためなら、人を傷つけようが困らせようが一切構わない・・・
 
もし、このような人が身近にいて、自分や自分の家族を傷つけたら平気でいられるのだろうか?

そのような時に、「おのれの不徳の致すところ」と言えるのだろうか?

 

そんな綺麗ごとで済まされない感情が、込み上げてくるような気がします。

 

そこに「相手を絶対許さない!」という恨みの感情が沸き起こってくるのは、自然なことかもしれません。

 

けれども、そのような恨み・辛みを持ち続けていけばいくほど、その感情は募るばかりです。

 

その恨み・辛みを持ち続け、物事が良い方に変わることはないのも確かなことです。

 

結局、恨み・辛みから得られるものは何もないのです

 

御指南に

 

「われをもうらみず人をもうらみず、心をやすらかにくよくよおもはずに御養生なさるべく候。」

 

「自分自身を恨むこともせず、人をも恨むことなく、心を安らかに色々と案じることもなく、心の養生に努めなさい。」

 

このようにお示しですから、たとえ恨む心が起こってきたとしても、何時までも引きずらない心に切り替えていくことが大事なことです。

 

そして、いつかは「相手を許す心」を持てる器の大きな人間になりたいものです。


人を恨むことより人を許せる心を持つことが、どれほど大切なことか、そしてどれほど素晴らしいことか計り知れません。

 

そのような心の大きな器の人になっていけたら、きっとその人の人生は光り輝くのだと思います。

 

 

「蒔かぬ種は生えぬ」という言葉

 

                御 教 歌 

  

       まかぬたね はへぬいはれを しらずして   

 

         このみばかりを とるぞはかなき  

 

  

 ことわざに「蒔かぬ種は生えぬ」とあるように、何もしないで善き結果だけを望んでも無理なことであることをお示しの御教歌です。

 

この「蒔かぬ種は生えぬ」という言葉は、物の道理についての教えです。  


「何ぞ種を下さずして果実を穫(と)るものあらん。」  

 

これは、誰彼が決めた事ではなく本来の決まり事です。  

 

私達の生涯においても其の通りで、例外はないものです。  

 

スポーツ選手でも、努力なくして栄光はない筈ですし、一流といわれる人達は、目標設定からそれに向かって実行していく。  

 

己の限界まで追い込むという凄まじい努力を繰り返しているようです。  

 

食生活から競技生活から私生活全てにいたるまで自分を追い込み、そして大会で結果が伴ってはじめて人から認められるアスリートとなります。

 

その時その瞬間は光輝いて見えますが、それまでの長い道のりがある訳です。   

普段からの努力なくして栄光はないように、私達の日常生活においても同じことが言えるのだと思います。  

 

では、私達において何が幸せの種まきとなるのか?  

 

それは

 

「身にそふ物は追へども去らず、身にそはぬ物はまねけども来らず。」  


「我が身につけた徳は、追い払っても去ることはないし、身に徳がついてないものは如何に招いても来る筈はない。」  

 

このようにお示しですから、我が身に徳をつけることを大事にしたいものです。  

 

そして、我が身に徳をつけていくのには具体的にどのようにしていくのか?  

 

「我が身を下りて人を立て、徳は人にゆづりて苦労は我に引きうくるやうにするを、本因妙(ほんにんみょう)と申し候。」  

 

「我が身を下ってでも人を良くしていき、徳を積むための苦労は何処までも自分で引き受けていくようにするところに、本当の徳の積み方があるのである。」  

 

このように仰せで、時には自分が踏み石になってでも人を助けていこうとする生き方に「徳を積む因」があるというのです。  

 

確かにこういう生き方は中々出来にくいことです。  

 

けれども  

 

「俄(にわ)かもうけには俄かのかげがさし、地道の事には地道のかげがさす。されば、時のいたるをまちて・・・云々。」  

 

という教えを信じて、地道に築いたものには地道なりのことが必ずあることを信じて時期を待つことも大事なことす。  

 

我が身に徳を積むための努力は、決してその人を裏切らない筈です。



小牧清立住職のイラスト
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