器の大きい人
それは、仏様が教えを説いていくと、人々は次から次へと仏門に入っていきました。
当時、インドではバラモン教が主流でしたが、そのバラモン教の信者までもが仏様の教えに慕って入門する人が増えたのです。
この状態を見かねたバラモンの僧侶は、仏様を妬むようになり、とうとう我慢出来ず、仏様のところへ行き散々罵(ののし)ったのです。
その時仏様は、その僧侶に対して
「あなたは、自分の家に友人が遊びにきたら、食事を出してもてなす用意がありますか?」
「もちろんある、当たり前ではないか!」
「ではその時、友人がせっかくのご馳走を食べなかったら、誰が食べるのですか?」
「それは、当然私が食べるに決まっているではないか!」
「そうですか・・であれば、あなたは先程私を罵(ののし)り罵倒(ばとう)しましたが、私はそれを受け取ったりしません。そうすれば、それらは全てあなたの元へ返っていくのです。」
更に続けて
「罵りに対して相手を怒ったとしても、何も生み出されるものはないのです。怒りに対し怒り返すのではなく、自分自身を静めることこそが最大の結果をもたらすことになるのです。」
この言葉を聞いた僧侶は心打たれ、仏様のもとへ入門し修行していかれた
というお話です。
仏様の
「罵りに対して怒ったとしても、何も生み出されない。」
心に沁みる言葉です。
そんな心の器になりたいですね。
敬ひの心
相手に求めるよりまず自分から
「人を敬へば人また我を敬ふ。人を軽しむれば人また我を軽しむ。」
このような分かりやすい教えがありますが、この教えの意味を理解しても本気で取り組んでいるいるのだろうか?
ふと、考えてしまうことがあります。
順風満帆に事が進んでいるときは良い顔が出来ても、自分の立場が悪くなると態度が一変してしまう自分はいないだろうか?
人は本来「敬いの心」を身に付けているものですし、「敬いの心」がなければ人ではないとまで云われてます。
人を大事にするから・敬うから、人からも大事にされるようになったり・敬われるようになるもので、そこに人との信頼関係が築かれていくのだと思います。
逆に、
自分は敬う努力をせず、相手からだけの敬いを求めると人間関係でも上手くいかないものです。
「あなたが私のことを大事にしないから!」
こんな心が起こってきそうです。
相手を責める前にもう一度
「自分は人を敬う努力をしているだろうか?」
ここから振り返ってみたいものです。
相手を振り返させる工夫より、まず自分を振り返ることの方が、どれだけ人らしく成長していけるのか分かりませんし、そういう人は周囲の人から自ずと信頼されていく筈です。
「人を敬へば人また我を敬ふ。人を軽しむれば人また我を軽しむ。」
この教えを心に刻み、人を敬っていくところに円満な人間関係も築かれていくことを再確認しておきたいものです。
仏教は勧善懲悪の教え
御 教 歌
こころみに おもひのままを かきたれば
わろきをのぞけ よきをおぎなへ
仏道を一言でいうなら「悪きを除き善きを補っていく」ことであると仰せの御教歌です。
仏道は「勧善懲悪(かんぜんちょうあく)」の教えです。
「勧善懲悪」とは善を勧め悪を懲らしめることで、正しいこと・善の道を尊び重んじ、悪いこと・悪の道を忌み嫌い排他していこうとする立場を貫くことです。
正しいことは正しい。悪いことは悪い。とはっきり物を言い、行動に移すことです。
それは決して一時の感情ですることではなく、理路整然と行うことです。
事の善悪の判断というのは、何も殊更難しく考えることではなく、日々の生活のなかで起こってくる出来事に対してです。
たとえば、
・人を大事にする
・人の立場で物事を考える
・人に思いやりを持って接していく
などは、人として身に付けておきたい大事な事柄でしょうし、逆に
・人を落し入れる
・人を傷つける
・人に嘘をつく
等は人の道から外れた行動で、誰もが分かっていることです。
ところが集団の中で、曖昧な態度をとりやすいのが私たちのようです。
大勢の中で善悪の是非論を述べるより「多勢に無勢」で、長い物には巻かれ、事の正邪より自己保身に走りやすいのも確かなことです。
それを「協調性」とも呼べますが、真の「協調性」は、物事の善悪を正しく見つめ判断していくことに議論をかさね、物事が正しい方向へ進んでいくように協力していくことです。
そこには、自分がどう思われ、どういう扱いを受けようが、物事を正しく判断していこうとする「心の強さ」が必要となってきます。
その「強い心」を培っていくために仏道修行があるといえます。
現代においては「易きに流れやすい」のが、お互いの置かれている立場なのかもしれません。
だからこそ「強い心」を培っていき、物事の善悪をはっきりと指し示せる人になっていくことが、まことに大事・大切なことだと仰せの御教歌です。