自業の因果
御 教 歌
なすわざは よかれあしかれ むくふべし
火はあたたかに 水はつめたし
火に近づけば暖かくなり水に触ると冷たくなるように、自分の為す行ないは善かれ悪しかれ必ず報いがくることを仰せの御教歌です。
仏さまは、この世のなせる業(わざ)は全て因果応報だと云われています。
自分の起こる心・行ない全てに対して因果の報いがあるということです。
「人の世の中の因果は車輪の如くにて、昨日滅す主君の為、今日は我が身の上となる報(むくい)の程こそはかなけれ」
これは、織田信長が本能寺で明智光秀から殺害される様を詠まれた歌です。
「因果はめぐる小車(おぐるま)」
ということわざがあるように、なせる業とその報いが巡りまわっていくというのです。
武将織田信長は家来明智光秀から殺され、その明智光秀も豊臣秀吉から殺されるという、まさしく戦国時代の凄まじい「因果の小車」を呈している出来事です。
御指南に
「諺(ことわざ)に、まかぬ種ははえぬ。されば善悪ともにまいた種なれば、はゆるといふこと決定(けつじょう)なるべし。」
「ことわざに、原因がなければ結果が生じないように、善悪の行ないに応じて結果が生じてくるのである。」
なせる業に応じて報いを受けるということですが、ここで捉えておきたいのは、「なせる業」は何か?ということです。
業といいますと行動だけを捉えがちですが、心に起こってくる思いも業となるのです。
例えば、日々の生活の中で人を憎んだり嫉むなど色々な心が起こってきますが、それら全ての起きてきた心が「心の根底」に業として刻まれていくというのです。
その刻まれた業が、やがて悩み・苦しみの姿・形となって顕れてきます。
もちろん、起こる心の中にも人を思いやる心など良い業も刻まれていきますから、その結果として喜びの姿・形として顕れてきます。
仏さまは、このことを「自業の因果」と云われ
「今悩み・苦しんだり、あるいは喜びがあるのは、誰のせいでもなく自分自身が積んできたところの業に因る。」
このようにお示しです。
ですから、同じ業を積むのであれば、善き業を積んでいくことが幸せをもたらす結果となっていくのです。
このように、この世の中は全て因果応報であることを心得、なせる業にも善き業を・・・このことを捉えて暮らしていきたいものです。