「流れ渡りにせよ」とは大切な教訓
松ノ木のたとえ話
仏様の教えの中に、こういうお話があります。
ある日、仏様は一人の男と歩きながら、次のような話をされたのです。
仏様
「あなたは、私のことを信じていますか?」
男
「はい、仏様の云われる事、全て信じています。」
仏様
「なるほど、あなたは立派な人です。」
男
「・・・・・」
仏様
「それでは、あの崖に突き出ている松の木に上ってみなさい。」
男
「はい」
このとき男は、まあ上るぐらいだったらいいだろう・・の気持ちでした。
ところが、実際上って下を見てみると、そこは断崖絶壁で一歩足を踏み外すと大海原に落ちてしまう危険なところでした。
男は慌てて松ノ木から下りようとしていると、
仏様は
「その松の枝にぶら下がって御覧なさい。」
と云われるのです。
このとき男は、仏様は何てことを云われるのだろう・・と疑問を持ちました。
でも、仏様の言葉だから仕方なくぶら下がりました。
下をみると、もう恐いものですから、すぐさま松ノ木に掴(つか)まろうとした時、
仏様は
「その片手を離して御覧なさい。」
と云われるのです。
このとき、さすがの男も
「仏様は私を殺す気ですか!」
と怒ったのです。
それに対して仏様は
「あなたは、さきほど言いましたね。私の云うことは何でも信じると。あれは嘘だったのですか?」
そう云われると、確かに自分の言った言葉だけに、何も言えませんでした。
男は仕方なく片手を離したのです。
更に仏様は
「その片手の指を一本ずつ離しなさい。」と
このとき男は、初めて腹をくくったのです。
「もう仏様の云われるとおりにしよう、もうどうなってもいい。」
そして、指を一本ずつ離していったら、案の定 海へ落ちていったのです。
同時に、その時仏様の救いの手が差し伸べられた・・・というお話です。
この松ノ木にしがみついている姿を、自分考えに執着している私たちに喩えてあります。
「自分悟りを止めて、流れに身をまかせていくところに楽になっていく因があるのですよ。」
このようにお悟しです。
松ノ木にしがみついていること自体に迷い・苦しみがあるのであれば、手を離したらかえって楽になれるのでしょうから。
そのことに早く気付きたいものです。
「流れ渡りにせよ」とは、まさしく、生きていく上で大切な「教訓」だといえます。