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幸せさがし
御 教 歌
我宿の 宝の蔵を うちわすれ
よそに尋ぬる しづのしこらめ
我が家の宝の蔵を忘れ、他所へ宝の蔵を尋ね、さ迷い歩いているほど浅はかで愚かなことはない。
このように仰せの御教歌です。
ここで「しず」という言葉が出てきますが、ことわざに
「賤(しず)に恋なし」
「恋の歌をよんだり文を書いたりするのは、心が乏しい人には出来ない。」
という意味で使われてます。
さて、我が家の宝の蔵といいますと何を思い起こされるでしょうか?
大きく分けて三つあるといわれてますが、
一番目に財の宝、二番目に身の宝、そして三番目に心の宝だと云われています。
この全てを満足出来る状態だと、他人を羨むこともありませんが、どれか1つでも欠けたら不幸になるかと思います。
まず、一番目の財の宝がないと不安になるかと思います。
もちろん、無いより有ったほうが安心ですが、もし二番目の身の宝がないとすれば、財の宝があったとしても幸せを感じないものです。
また、財も身の宝もあったとしても、心の宝を得ていなければ本当の幸せとはいえません。
全てを満足して幸せともいえるのですが、ここでは幸せになっていくための順番があることを知っておきたいものです。
まず、「心の宝」を大切にしていき、人を思いやる心豊かな人になっていきたいものです。
先日の新聞に、「これからのリーダーに必要なものは、敬意を払われる専門能力と人間力」だと掲載してありました。
そして二番目に「身の宝」です。
やはり健康でいられるのは、当たり前のことではなく、とてもありがたいことです。
健康で暮らしていけることに、喜びを感じながら暮らしていきたいものです。
また、身体が不自由であったとしても、心の宝をいただいている人は、置かれている現状を決して不幸などと思っていない筈です。
そして三番目に「財の宝」が身についたら嬉しいものです。
この順番を捉えて生活していきますと、他所へ幸せを尋ねる必要もありませんし、自分自身の中で幸せ探しをしていけるのではないでしょうか。
謙虚に聞く姿勢を持つ
御 教 歌
しらぬこと しらぬといひて たづねなば
世はやすらかな ものにぞありける
知らないことは知らない・・・と言って尋(たず)ねていけば、世の中を生きていくのに心安らかになるものである。
このように仰せいただいた御教歌です。
人間、知らないことは案外多いものです。
いや、知らないことだらけなのかもしれません。
だから物を学び知る・・・という姿勢は持ち続けていきたいものですし、謙虚な気持ちで居続けていたいものです。
確かに、知らないことを人に聞くということは、人にどう思われるだろう・・・とか、こんなことを聞いたら馬鹿にされないだろうか・・・と思ったりしますが、
「聞くは一時(いちじ)の恥、聞かぬは一生の恥」
ということわざがありますように
「しらぬことを聞くのは、その場だけの恥ですむが、聞かないでいれば、一生知らぬことで恥ずかしい思いをしなければならない。」
ということです。
たとえば、人の道においてもそうです。
人として踏み外してはならない道がありますが、
・人を殺してはいけない
・人を陥(おとしい)れてはいけない
・人を裏切ってはいけない
・人に嘘をついてはいけない
これらのことは、誰でも分かっていることなのですが、これらを頭の中で知っていることと、身を持って知ることとは全然違うのです。
実際に身を持って知っていこうとする人は、謙虚に教えを聞きながら身に付けていこうとしますが、しらぬことをしりたりげにする人は、自分考え・自分悟りで物事をやっていこうとしますから、人としての道も身に付かないものなのです。
これをことわざに
「論語読みの論語知らず」
「道徳の本である論語の文章はよく分かっているのだが、実行は出来ないことのたとえ。」
とあります。
やはり物事において、知らないことは知らない・・・とあっさりと認め、謙虚に聞く姿勢を持つことが大事なことなのでは、と思います。
そうでないと、
「理(り)も高(こう)ずれば非の一倍(いちばい)」
「自分は正しいのだといって、お高くとまっていると、鼻について誰も相手にしなくなる。」
ということになりかねませんので、心していきたいものです。
知らないことは知らない・・・で謙虚に聞くことをしていけば、どんなに心安らかに暮らしていけるか分かりませんので、そのようにしていきたいものです。
そのことを仰せいただいた御教歌です。
物の見方・捉え方
<Seiryuのつぶやき>NO425
物の見方・捉え方
物の見方・捉え方として、近視眼的・刹那的な捉え方と大局的な捉え方があるように思います。
近視眼的といいますと、私自身、眼鏡を掛けていませんと遠くのものはボーっとしか見えず、近くのものでも目を近づけないと中々見えません。
近くのものは何とか見えても、周りにあるものは見えません。
このように、目先のことはよく見えても、遠くにあるものは見えないことです。
刹那的というのは、その時その時に起こる出来事が、一瞬にして起こり、一瞬にして消えてしまいます。
そして、一つ一つの出来事がすべてのように思い、一喜一憂してしまうのです。
大局的な捉え方というのは、人の生涯を通して、今何をしていくことが大事なのか、そのためには自分自身がどうあるべきか?を考えていきます。
そういう捉え方をしていくと、目の前に起きていることや目先のことに、一喜一憂することなく、冷静に判断が出来ていくのだと思います。
近視眼的、刹那的な物の見方を「点の生き方」としますと、大局的な物の見方を「線の生き方」と呼べるのかもしれません。
どちらの生き方に重きを置くか・・・考えてみるのも良いことですね。




