連絡先 ≪本門仏立講 蓮行寺≫
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利を取る生き方を止めて人のために
御 教 歌
ほねをしみ すこい事して 報はぬと
思ふは因果 しらぬものなり
苦労は嫌がる、おまけにずるいことをしてまで利を貪る生き方には、必ず因果の報いがあることをお示しの御教歌です。
仏さまは今の時代を「五濁悪世(ごじょうくあくせ)」と云われてます。
善に対して心が進まず、妬みの心が強く、自分のことを中心に考え、他人を思いやる心が薄い人達の生まれ合わせの時代だというのです。
ですから、善に対しては骨惜しみをして中々苦労してまでやろうとしません。
逆に自分に利があれば、人を差し置いてでも物にしようとする心が強いのも確かなことです。
また、ずるいことをして利を貪る生き方に、因果の報いが必ず来ることを知ろうとしないのが、今の私たちの心の根だと。
御指南に
「人死してその身を亡ぼすといへども、一生なしたるその善と悪との行ひは亡びず。譬へば火をともして夜書をかくに、火はきえても文字存するが如し。
今生(こんじょう)になしおく所の行なひ、身亡びて後の世に、その報ひを得て、これを成ず。」
「人は死んでその身は亡びても、生涯のなかで行なった善と悪の行ないは決して亡びることはない。
例えば、夜に火を灯しながら書いた文字は、火が消えた後でも残るようなもの。
今現在、全ての善と悪との行ないは、死んだ後にもその報いが必ずくる。」
このようにお示しです。
更に御指南に
「禍福(かふく)は門(かど)なし、唯自ら招く処、これを因果と云ふ。」
「人の災いや幸福はどこから入ってくるという門はない。それは自分自身が招くのであり、これを因果という。」
このようにありますので、利を貪る生き方は止めにして、人のため一肌脱げる生き方に変えていくことが、どれ程価値のある人生になっていくことか分りません。
忠と孝
御 教 歌
人として 忠と孝とを しらざれば
あきめくらとぞ 世にはいふなり
「忠と孝」を身に付けていなければ、心の眼が開いてないことを仰せの御教歌です。
人が人らしくあるための道として、「忠と孝」があります。
忠とは、「忠誠を誓う」とありますように、決して裏切ったり、落とし入れたりとかすることなく、まことを尽くしていくことです。
孝とは、親を大切にすることで「孝は百行の本」という言葉がありますように、孝行はもろもろの善行の基本でもあります。
この「忠と孝」を身に付けた人になっていくよう、心掛け精進していくのが、「人らしい生き方」でもあります。
人が人らしくなる、その先に仏になる道がある ということですし、その基本が「忠と孝」です。
また、忠孝の道は
「孝なくして忠の道は立たず」
「まず自分の一番身近な存在である親・家族を大事にせずして、嘘・偽りのない忠の心は宿さない。」
このようにいわれてます。
まず身近な人一人から大事にしていき、やがては周囲にも及ぼしていけるような「人らしい人」になっていくことがとても大切なことです。
借りて借り得貸して貸し損
御 教 歌
かりた物 かへさぬ程の 義理しらず
それゆえ人の ものをほしがる
借りたものを返さない人は義理を知らず、他人の物まで欲しがる癖があることをお示しの御教歌です。
ことわざに
「借りて借り得貸して貸し損」
「借りたらこっちのもので、返せなくなったら返さなくて済む・・と得をした気分になることで、逆に貸した方は、返ってこなくなることもあるので、損することが多い。」
言われてみたら、確かにそうかもしれません。
また
「借りる八合なす一升」
「八合借りたら、返すときは一升にして返しなさい。」
このような言葉もあります。
「借りた物は返す」というのは、当たり前のことであり、そこには返さなくていい理由など存在しません。
それは人としての道です。
江戸時代には盆暮れ勘定といって、商人と客人は品物の代金を盆と暮れに清算する慣習があったそうです。
そこには、お互いの信頼関係があったからこそ成り立っていたのでしょうね。
人の信頼を裏切ることは、恥であり、野暮な生き方だったのでしょう。
現代の私たちも、人らしい心の持ち主として生きていくためにも「人としての道」は踏み外さないようにしたいものです。



