無から始まる有を思考してみる | 蜜蜂と銃 〜タロットと数の言霊〜

蜜蜂と銃 〜タロットと数の言霊〜

あの世とこの世と数とタロット占い。

本日は魂の空模様はお休み。

たまには柏木らしく、好き勝手書こうと思う。(いつも書いてるだろうって?)
「最近のブログは面白くない」という一部コアな方からのリクエストも頂戴してることだしね(笑)

さて。
先日クライアントから「柏木さんは恋愛に否定的なのか?」という鋭い質問があった。
これを機に最近書いていなかった話など書こうと思う。これは先にTwitterとなう。にポストしてるので、明日のお昼前には細切れで再ポストされるが判りにくいと思うので少し突っ込んでみる。


「柏木は恋愛に否定的か?」答えはYESでありNOだ。

厳密に、否定してるのは「執着した関係」であって恋愛そのものではない。恋愛中はある種のトランス状態であり、盲信的で偏った一面がある。この状態では冷静な判断力が欠如しており、時にとんでもない決断を下してしまったり、決断できないでズルズル行ってしまう場合がある。

よって『関係の合理性を客観的に考慮し、執着を否定する』鑑定結果を伝えることがある。

逆に損得でしか相手との関係を維持していない人が、相手の責任追及にばかり明け暮れる時には「何が何でも別れるな。もっと向き合え!」と叱咤することもある。相手を通した自分の価値、相手からみた場合の損得にも向き合わねば真実は視えてこないはずだ。

とはいえ実際の処、好きなら客観的で合理的な理由はいらない。
好きなモノに明確な理由など存在しない。好きなものは好き。本人が納得するまでことんまでやればいい。仮に分析し数値化できたとしても、その時点で感情は冷めているはずであり、愛とはかけ離れたもになっているだろう。

嫌いも同様、万人が納得する『別れる理由』がなくとも本人が嫌なら別れればいいと思う。社会的な常識やら世間体やら通念などクソ食らえじゃ!!そんな観念で心は救われない、腹も膨れない、万人を一様に愛することはできない。理屈では決して片は付かない。

こう考えていくと。
原因のない原因とか、理由がない理由が在るのではないのか、という結論に辿り着こうとする。

始まりは終わりであり、終わりは始まり。
しかも同時に起こっていると仮定しても矛盾はないのか…。是も否も善も悪も同時に存在し、同時に生き、同時に死ぬ。言葉にするのは難しいな。

仮に善が存在しようとした時、その場では善という有が存在しうる理由であって原因そのものではない。善が存在しえたなら同時に悪が存在しなくてはならない。悪のない世界では善が善である理由が破綻してしまう。つまり存在する理由は対象と成る相手の存在が大前提である、と。

こうして有を留めておく場は無でなければ成り立たないはずだ。何せ有には限りがある。つまり無の中に有がある。無こそ有の基であり、有は無の中に形成されている。有を生み出すのは理由であり、都合の善し悪しがあるだけ。この都合がどちらに有利かを議論し初めてそれぞれに有利な理論の出発点、つまり『原因』が発生するのだ。別れの原因がいつも男の浮気とは限らないのだから。

『無から有は生まれない』『全てのものには原因がある』これは間違いだと結論付けられる。
有は無が在ってこそ成り立ち、原因とは誰かが望まねば発生しない。

釈迦の手の平(無)を飛ぶ孫悟空が有であり、飛ぶ理由がそこに在っただけだ。
孫悟空が釈迦の手の平から飛び出せなかった原因を探しても、釈迦には無意味である。


疲れた頭にクリックの爽快感を。
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