blogを始めて丸2ヶ月が過ぎた。我ながらよく毎日書くことがあると感心してるとこでもある。
どこかのタイミングで書いたかもしれないけど、何のため誰のために霊視(タロットリーディング含め)をしてるのか改めて考えてみた。
これまでごく親しい友人や知人に限り自分の力をカミングアウトしてきた。
霊感のある人には解って貰えると思うけど「霊が視える(聞こえる、話せる)」と公言するのはタブーなんだ。返ってくる反応は概ね「頭がおかしい」「嘘つき」「気持ち悪い」「無視」辺りかな。
構って的な「霊感ちゃん」は別にして。
相手を見て、話しても大丈夫だと思えなければ自分の視ているもの聞いてることを知らせない。そのうち本当に嫌に(ばかばかしくも)なり、知らん顔するなり、周りに合わせて信じないフリしてみたり。
とにかくカミングアウトにはリスクが付きまとう。
そもそも『視えるだけ』であれば文字通り視るだけで何もできない、何もできないのに不安を煽るような話しをしてもしょうがないしね。変な顔されたり好奇の目で見られるくらいなら話さない方がマシになるんだ。
でも、道で困ってるお年寄りに会えば何かしら手を貸そうと試みるでしょ。
(最近、見て見ぬフリの人が多くて残念だけど)
自分にできることがあれば何かしてやりたい、そこに明確な理由は無いと思う。いい人と思われたいとか、助けたお年寄りが大金持ちで…なんて思って動くことはないでしょう。もし瞬時に計算できるなら、それはそれで素晴らしい能力だと思うけど。
自分が『霊感だけ(視えるだけ)』なら死ぬまで見て見ぬフリだったと思う。
できることは忠告する程度しかないし、不効率極まりない。ましてや見知らぬ人に「あなた浮遊霊に憑かれてますよ」と伝えて聞いて貰えると思えないし、気味悪がられるのがオチだもの。
10年掛けて見て見ぬフリしてきたけど、それは自分のしたいことじゃなかった。
時には罵られ、嘘つき詐欺師呼ばわりされたけど。自分を騙す嘘に比べればまだマシだったと思う。
今、有料鑑定に切り替えたのはその辺りの気持ちが大きい。
もし嘘つきだと思わせる鑑定内容だったらお金は貰わない。誰かの笑顔を見るのは嫌いじゃない、でも誰かの顔色を伺ってまで自分の力を遣う必要も意義も感じない。自分を犠牲にして誰かに尽くすなんて間違い、相手が喜んでくれれば自分も喜びを感じるからね。そこに『犠牲』なんてあり得ないんだ。
僕も人間。生活するには仕事をしてお金を稼がないと都会では生きていけない。
生きてないと楽しくない。セッションのない1時間は別の仕事でお金を稼がないと生活は楽じゃない、自分の『時間』を犠牲にするわけにはいかない。人身御供なんて都合のいい偽善にしか過ぎない。
結局、僕は刀鍛冶にはなれない。でも研ぎ師にはなれそうだ。
そこに刀があって錆びてるなら研いで光を戻してやりたい。光を戻した刀が人殺しに遣われるのは絶対に望まないけど、決めるのは使い手だもの。刀が持つポテンシャルを取り戻せなら喜んで力を貸したい。
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