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Chandler@Berlin

ベルリン在住

言語による本の厚さの違い

私の同僚であった,また先生でもある Joerg は私に,日本語の本は漢字を使っており,文字の種類が多数あるために本の厚さが薄くなるのかという疑問を投げかけた.つまり,一文字の示す情報が英語の Alphabet に比べて大きいためにある種の圧縮がかかっているのと同じではないのかという疑問である.たしかに「山」という文字は英語では,「mountain」と8文字になる. ただし,一文字の大きさは本によって違うなどいろいろと考慮する点はある.

私は Shakespeare の本が日本の翻訳されたものの方が薄いということを答えた.Shakespeare であれば,その翻訳は原文にできるだけ忠実であると予想されるから比較対象として良いのではないかと思ったのだ.しかし,日本の本が薄いのは紙の質によるかもしれないし,単純に文字の大きさの問題であるかもしれない.単純に本の厚さというのでは考慮すべきパラメータが多すぎる.
言語の複雑性

今回,言語感の差異が話題になった時,二つの面白い意見を思い出した.一つは言語の複雑性という考えであり,もう一つは言語による本の厚さの違いという考えである.

私の同僚であった,また先生でもある Alexander は,自然言語の持つ複雑性はどの言語でもあまり差がないのではという仮説を持っていた.彼の言う言語の複雑性とは,ある言語の持つ全体的な複雑性である.文法的な複雑性や,語彙,表記など全体を考えれば,ある言語はある部分が複雑であり,一方で簡単な部分もある.したがって全体として人間の話す自然言語は言語によらず同程度の難しさがあるのではないかという仮説である.

私の学んだ言語に関して言えば,印象として Alexander に賛成できる.それぞれの言語には難しい部分と簡単な部分があり,自然言語全体として一定しているのではないかという印象を私は持っている.これは人間の脳の処理能力に依存すると思う.そしてどの言語を話す親を持つ子供でも他の言語の習得が可能であることから,言語自身の複雑さは極端には言語によらないのではと私は予想する.
Gruenkohl Party

2012年1月20日に,Danielの家で Gruenkohl を食べるという Dinner があった.それぞれの出身国がオランダ,ドイツ,アメリカ,カナダ,日本,という集りであった.そういう場で良く話題になるのは言語間の差異についてである.

ある友人は中国語の発音がいかに難しいかを中国語を習った経験から説明した.彼が言うにはこれを習うのはほぼ不可能ということである.ドイツ語の名詞の持つ性や冠詞のシステムも特徴のあるものとして良く話題に登る.

また,ある友人は日本の物の数え方のユニークさを指摘した.日本語では物を数える際に何を数えるかによって数詞が異なるので何を数えているかが想像できる.人を数える場合と紙の枚数を数える場合方法は異なる.とはいえ,私は英語でも two piece of papers や, three pairs of jeans というので,日本語はそれをどんな場合でも使うだけだと説明する.

私はよくこれこれの言語はこんな難しさがあるから習うのは無理だというような話を聞く.しかし聞くほどひどいというものではないのではと私は個人的に疑っている.たとえば,日本語では3000ほどの漢字を日常的に利用する.しかし,これらの漢字は実は100程度の部首の組合せであり,3000全てがまったく関連のないものはない.多くの人が日本語や中国語,ドイツ語の取得に成功している.

ところで,私が良く使う組合せの感じの例は,人と木の組合せはどういう意味か.である,この blog の日本語版を読んでいる読者には簡単である(休)が,英語版の読者は人と木の組合せが何を示すかちょっと考えてみて欲しい(*).私の友人のもっとも多い解答は「木こり」である.ただ,「休む」という意味を答えた友人はまだいない.