表面的と思うことと本質的と思うこと | Chandler@Berlin

Chandler@Berlin

ベルリン在住

長いこと The last but not least という言いまわしが特殊なものだと思っていたが,先日,英語では最後のものというのは通常重要でない.重要なものは最初に来る.ということと組合さって,ようやくこれの意味がわかった.


日本では重要なものは最後に来ることがいくつもある.「取り」というのは最後の真打ちである.前座と言えば,重要性は下がる.だからこれが何を言っているのかわかりにくかった.最後だけれども,重要でないものではないよ,という意味は,最後は常につまらないものであるという仮定があるからだ.

さて,これは文化ではあろうが,私としては表面的な違いにすぎないと思う.私の知る限り,どの文化でも,ものごとの優先順位があり,それを高い順に並べるか,低い順に並べるかという違いはある.それは私には表面的に思う.日本では成績が高いものの数が大きい.たとえば,五段階評価でオール5というものがあった.これは優秀の意味であるが,ドイツで,五段階評価で全て 5 というのはなかり困ったことになるようだ.なぜなら 1 が優秀であることを示すからだ.アメリカでも ABC 評価では A の方が優秀である.

今日私は Rainer Werner Fassbinder の映画,Angst essen Seele auf http://www.imdb.com/title/tt0071141/ .を見た.個人主義の強いドイツであっても日本のようにやはり妬みがあり,そして世間のようなものが存在している.こういうものは日本の映画が上手いものと思っていたが,そんなことはないようだ.

老女が突然恋をする.しかし,そう簡単には幸せにはなれない.世間は理解しにくいこと,普通でないことを拒否する.外国人もその一つだろう.「発音が悪くて何が欲しいのかわからないね.」という店は確かに Berlin にもある.私の経験では,映画ほど酷くはないが,同じようなことが驚くほど上手く描かれている.しかしこれは残念だが,日本でもあることだ.私はこの作品に,文化を越えた人間の本質を見る.残念ながら映画は暗い.真摯に正直に人を書いていると思う.そして,一般人である主人公は幸せになれたとは言えない.この映画はあまり成功しなかったのでは思う.私もそうだが,映画を単純に空想の世界で楽しむという人は多い.現実は十分経験しているので,映画位,空想したいというのもよくわかる.

しかし,人が甘い菓子だけを食べていれば病気になるように,楽だからと言って,寝てばかりいればやはり健康を損なうように,苦くても見るべきものはあると思う.そのような作品だったと思う.


このように本質的なことを見ていくと,少なくともドイツと日本はかなり似ていると思う.私にとってこれは希望である.ドイツ人とは深い文化的な部分でもわかりあえるという希望である.いかに日本とドイツが違うか,ということは興味深いことである.しかし,それは本質なのかということをまず問いたい.この作品は私に太宰の作品を彷彿させた.この映画が見せるように,まったく違ってみえるこの二つの文化の底に見える類似性,それこそが私が面白いと思う部分である.表面的な違いを見つけることはたやすい.バイエルンとベルリンでもいくつもみつかる.しかし本質的なことをみつけるのは良い映画作品ですらまれであると思う.